小言を言う

息子に小言を言った。彼は大学の推薦入学の志望理由書がうまく書けず悩んでいた。ぶつぶつ独り言を言い,半分切れかけていた。お前バカか。

相手に点数を付けようとする人達は,その観点を決めているものである。私だって部下の査定基準を決めていて,それが上がるように「あれやれ,これやれ」とうるさく指示するのである。大学の入試担当者なら次の一点にしか興味はないはずだ:自分の将来の夢がどのようなものであり,その実現のための準備において当学のカリキュラムがどのようにマッチするのかを,具体的に説明しているか

頭で考え悶々とする前に手を使え。100 点をとろうとする前に自分の将来の希望が説明できているかを検証しろ。お前はじっと座ったまま,「個性的」に,「立派」に書こうとして,文章をいじり回すことしか考えていない。そんな態度だと,いかに立派なことが述べてあっても,美辞を用い文章が流れるように巧みでも,入試担当者は読み飛ばすだけだ。逆に鼻先で嗤うかも知れない。そんなのは口先だけだとわかっているからである。「具体的」ではないからだ。そういうのを,関西では「ええカッコしぃ」というのだ。

「具体的」というのは,自分の手を動かしてなにかを調べたかどうかということだ。「田中一郎先生の新書『イスラム法』を読んで,現地の人々との共同生活に根ざして理解しようとする態度に共感した。A大学では田中先生がイスラム法講座を開いており,日本とイスラム諸国との民間友好に関わりたいという私の願いを...」云々という感じ。その本を読んでいないと,田中教授の講座の存在を調べて知っていないと書けないようなこと。「具体的」というのは,例えばそのようなものである。「具体」を目指せば,カッコなんてつけなくても,それが「個性」を十二分に規定するわけで,自ずと入試担当者の目に留まるはずである。

え? 「将来の希望」なんてない? そんなの知ってるよ。お父さんだって大学に入る段階で「将来」なんていうほどの立派なイメージは何もなかった。だから志望校に合わせて「将来の希望」を作るのだ。いいの。割り切って。手を動かすというのはそういうことでもある。「正直に書け」なんて誰も言ってない。