辻原登の短編集『マノンの肉体』を読んだ。作者が芥川賞作家だということを,私はまったく知らなかった。
『片瀬江ノ島』,『マノンの肉体』,『戸外の紫』の三編が収められている。どれも時間がゆったりと流れる,濃い名編である。
この短編集の特徴は,他者の文学テクストと,それとはまったく異質な別の語りとを二重写しのように感応させ,その向こう側に,家族関係に横たわる静かな,そこはかとない狂気を醸し出すところか。
『片瀬江ノ島』におけるラフカディオ・ハーンの江ノ島紀行と,老婆の昔語りのなかの映画館・小津安二郎の映画『浮草』。『マノンの肉体』におけるアベ・プレヴォの心理小説と,和歌山の片田舎で起きた,当事者死亡をもってその真実が閉ざされた殺人事件の調書。『戸外の紫』はその特質は薄いけれども — とはいえ,やくざの仕置きを怖れて逃げるという,孤独な女主人公にあっては暗に小説のようなストーリーが思い描かれている意味で,文学的パラレルがあるともいえる —,閉塞,腐臭,陰湿の味わいをもって,缶詰のような人生からの,未完に終わった逃亡とでもいうべきモチーフを語っている。
作品は終局で,蓮が一瞬開花するかのように,微かにスパークするが,期待感は宙ぶらりんのままである。そこがよい。ハーンの視野における富士の不在。マノンの肉体の不在。逃避行における逃亡の不在。それらは皆,人生の妙な欠落感を表現していて,切ない。