斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読んだ。妻が著者から献本された太田出版初版本である。

「戦闘美少女」というのは,少女のあどけなさと,成熟した女性の性的・肉体的特徴とを兼ね備え,悪と戦闘する美少女のアニメ・マンガ主人公のタイプである。『セーラームーン』のうさぎ・その他の主人公たち,『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ,『風の谷のナウシカ』の女主人公のようなキャラクターがその代表である。いうまでもなく,彼女たちは「おたく」の「萌え」の一貫した対象であり,その登場以来何年も経ているのに日本のみならず海外のおたくの関心を捉えて止むことがない。本書は,「戦闘美少女」を愛するおたくの精神分析,その生成原理を,著者の専門分野である精神医学の立場に立って,論じたものである。

「精神病理学」から出発しているが,「病理」として「戦闘美少女」の愛好を位置づけていない点が,じつは本書の価値である。おたくの「戦闘美少女」の愛好癖が仮に単なる精神病理現象,要するに「病気」だとするならば,とにかく治療しなければならない,ただそれだけだろう。そこからは,それそのものの「価値」や「人間的情念」の議論はすっ飛んでしまう。本書はそのような「診断」的行為ではない。「戦闘美少女」を日本のサブカルチャーの文化現象として真っ向から分析し,想像力における自立的リアリティの創造というその文化的意味,おたく文化の精神的「価値」を明らかにしているのである。

本書には,筆者が強い影響を受けたジャック・ラカンに特有の,難解な書法がある。とくに第六章『ファリック・ガールが生成する』には,私には文意がいまひとつ理解できないところがあった(デリダなどのポスト構造主義の文章は,残念ながら,私にはさっぱりワラカン)。それでもやはり,日本のおたく論としては気鋭の一冊だと思う。

私は著者のおたく論ともいえる第一章,第二章が個人的に面白かった。著者は,適切にも,おたくのパロディー志向を指摘している。作品・キャラクタは彼らにとって完成した芸術品として神格化すべき対象ではないとする。文学の領域には,聖化された作家・作品をいじり回して楽しむのは「冒瀆」である,とするようなクソ真面目があるのとは対照的である。ここで著者は「現実」と「虚構」という無意味な対立軸に囚われることなく,おたくの対虚構性癖を,独特の作品所有の仕方によって素描する。

彼ら〔おたく: 私註〕が好きなのは虚構を実体化することではない。よくいわれるように現実と虚構を混同することでもない。彼らはひたすら,ありものの虚構をさらに「自分だけの虚構」へとレヴェルアップすることだけを目指す。おたくのパロディ好きは偶然ではない。あるいはコスプレや同人誌も,まずこのように,虚構化の手続きとして理解されるべきではないか。〔中略〕私の考えでは「SS〔ショート・ストーリーないしサイド・ストーリー: 私註〕」こそ,まさにおたくによる作品所有の手段にほかならない。作品をみずからに憑慰させ,同一の素材から異なった物語を紡ぎ出し,共同体へ向けて発表する。この一連の過程こそが,おたくの共同体で営まれている「所有の儀式」なのではないか。
『戦闘美少女の精神分析』太田出版,2000 年,p. 36。

アニメ,マンガの面白さはパロディー性にあると私も思う。パロディーの本質は差異の認識が齎す想像力ではないだろうか。それは必ずしも,下敷きになった原作の問題を抉り出し,それを嗤うだけには留まらない。下敷きになっている作品・タイプの認識がパロディーの発信者と受信者の相互にあって,原作との差異を楽しむわけである。これによって,ワンパターンの有する豊かさも説明される。ワンパターンにある個別属性の微妙な差異こそが楽しみの源泉になる。ここではパターン化していることなどどうでもよい。これこそ「通」の芸術受容形態ではないだろうか。

ネットの海外おたく談義でフランス人が発した言葉が私の印象に残っている:「俺たちがキャラやストーリーで盛り上がっているとき,同じ作品で彼ら(日本のおたく)はキャラの視線,爆風,ゴミの動きで盛り上がっているんだぜ」。アニメ,マンガのキャラやストーリーそのものはワンパターンであって,だからこそ「ツンデレ」,「やおい」などの類型化が直ちになされるのである。よって,その人物像,筋書きそのものをあげつらっても面白くない。「そんなこと知ってるよ」である。その類型にあって,綾波レイ(『新世紀エヴァンゲリオン』)と長門有希(『涼宮ハルヒの憂鬱』)の千載一遇の微笑の差異,主人公の属性の細部(例えば,長門有希がエピソード 3 の図書館の場面で読んでいた本は,作品社刊,G. W. F. ヘーゲル著,長谷川宏訳の『精神現象学』であるなど)への徹底的こだわりこそが,おたくの意味あるリアリティなのである。そこでは,作者や作品の思想などものともせず,その差異を意図的に取り替えてパロディーを楽しむことができる(例えば YouTube に投稿された『エヴァ涼宮ハルヒの憂鬱』posted by ogahiro1987 をご覧あれ)。

こうしたサブカルチャーの受容様式は,文学伝統,とくに古典作品の読み方にも示唆を与えてくれると私は思う。文学研究では作者と読者との関係に,無意識のうちに高級な共謀を設定することによって,作品の価値を捉えるところがないわけではない。要するに作者の高尚な思想,文体経験が読者によっても共有される,ないしは逆に拒否されるであろうことに眼目がある。でも,アニメ,マンガのように,読者が作品・作者から自律して勝手に想像力を発展させるような受容形態があるという事実は,作品の時代によっては新しい視点を提供すると思われる。作者の意図と読者の楽しみ方が相互に影響し合いながらも,それぞれが独立性・自立性を保っている — そんな関係は,作家・作品の意義のみならず,文化的環境そのものの斬新な特質を考えさせてくれるのだから。
 

これは筑摩書房から出た文庫版である。しかし,本書の初版単行本(2000 年 4 月)で装丁を担当したのは,米 Time 誌において「世界で最も影響力のある 100 人 — 2008 年度版」に選ばれた「現代美術家」村上隆である。本書は,彼がはじめて装丁を担当した書籍としても,秘かな価値がある。
 

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