ロシアのエロティック詩集

ロシアのインターネットマガジンサイト Ozon からロシアのエロティック詩集が届いた。Эротические стихи Золотого и Серебряного века. М.: «Милена», 2006(『金と銀の時代のエロティック詩』)。320 頁のハードカバーだけど,200 ルーブリ(約 600 円)しなかったと思う。「金と銀の時代」とは,ロシア詩の二つの黄金期のことで,一九世紀第一三半期のプーシキンを代表とする金の時代と,一九世紀末から二〇世紀第一四半期にかけてロシア象徴派・アクメイスト・未来派が活躍した「ロシア・ルネサンス」(ピエール・パスカル),銀の時代を指す。ポケモンの「金と銀」と同じ発想である。

詩人は常に色を好むものだし,ロシアの詩人も例外ではない。もっとも,プーシキンなどその最たる大詩人でも,数あるエロティック詩は全集に収録されず,ロシアではこのテの詩は秘めやかな取り扱いを受けている。日本と違い,出版を含め公的な場での "неприличие(猥褻,無作法,indecency)" に対し極めて厳しい。当然,書かれた当時は発禁ものだった。昔は西側の亡命ロシア系出版社がごくまれにロシアの古典ポルノ詩集成を刊行する程度だった。ソ連時代には絶対手に入らなかったこの種の艶本も,いまはいくらでも出版されるようになった。

本書にはプーシキンを筆頭に,レールモントフ,バラティンスキイ,ネクラーソフ,フェート,アンネンスキイ,ブリューソフ,ブローク,クズミン,マヤコフスキイ,エセーニン,ツヴェターエヴァなどなど,ロシアの巨星たちの淫靡な詩が集められている。ちょっと引用しようか,私の愚訳も付けて。

世界文学史上に燦然と輝くアレクサンドル・プーシキン Александр Пушкин の詩(ここで「輝く」はプーシキンを修飾するものであって,次のエロ詩そのもののことではない…):

Час приходит настоящий,
Села дева наконец
На огромный, на стоящий,
На торчащий на конец.
Эротические стихи Золотого и Серебряного века.
М.: «Милена», 2006, с. 24.
そのときが來たぁ〜
をなごはたうたうお座りに
おほきな おつ立つた
そそり立つた ソレに

"огромный”(巨大な)だなんて,しょってやがる。конец は,「端,末端,尖端」という意味の,ロシア語では頻出する基本単語である。詩のなかでこの語と韻を踏む наконец は,「とうとう,しまいに」という意味の副詞である。この語が на конец と分割された瞬間に,隠語としての конец の意味(チンチン)がムクムクと起き出して来て痛快である。いけない。наконец に出会うと「チンチンに」を連想するようになってしまうではないか。

ちなみに,プーシキンは «Гавриилиада»(『ガヴリーリアーダ』天使ガヴリエルの物語)というエロティックな物語詩を書いている。天使ガヴリエルが処女懐胎を告げに地上に降り立ったとき,マリヤに一目惚れしてしまう。この作品は 1821 年創作当時に発禁となっただけでなく,この現代においてもキリスト教国では翻訳されない冒瀆的な問題作である。プーシキンが皇帝ニコライ一世じきじきの徹底的な監視にさらされる根本原因となったほどである。幸いなことに(あるいは不幸なことに),キリスト教禁忌に無感覚なるわが日本では,河出書房新社から出た『プーシキン全集』第一巻でその翻訳を読むことが出来る(キリスト教禁忌に無感覚なるがゆえに,詩人の人生を左右したその破戒的藝術性も素通しになってしまうわけだけど)。

この作品に認められるように,プーシキンは,真面目,厳粛,高尚,清純,悲哀と,エロス,下品,卑猥,諧謔,哄笑とを絶妙に混淆させることにおいて,シェークスピア,ジョン・ダン以上の才覚を発揮した天才なのだ。

プーシキンの代表作 «Евегений Онегин. Роман в стихах»『韻文小説 エヴゲーニイ・オネーギン』の第五章にあるタチヤーナの夢など,リビドーの巣窟なんである。翻訳で読んでもいまひとつピンと来ないけれども。プーシキンの翻訳はある意味でもっと不真面目なものが出てもよいと思う。

Осталася во тьме морозной
Младая дева с ним сам-друг;
Онегин тихо увлекает 32
Татьяну в угол и слагает
Ее на шаткую скамью
И клонит голову свою
К ней на плечо;...
А. С. Пушкин - Полное собрание сочинении.
изд. 4-е. Том V, Л.:«Наука», с. 93-94. Курсив мой.
厳冬の暗闇に 若い乙女は
彼といっしょに二人だけ取り残された。
エヴゲーニイはタチヤーナをそろそろと
小屋の隅へと連れてゆき
ぐらぐらのベンチの上に横たえて
肩先へ顔をかがめた。…
木村彰一訳。強調は私。

タチヤーナの夢のなかの一節である。並みいる悪鬼たちがタチヤーナを「オレのものだ」と叫ぶなか,そのボスであるオネーギンが「オレのものだ」と彼らを制したあとに続く件である。オネーギンがいまにもタチヤーナを犯そうというシーンである。「шаткая скамья ぐらぐらのベンチ」なんていう表現は「揺ら揺らと揺れる長い腰掛け」の意味で,情事でギシギシ音を立てる寝台を想像させるようないやらしさを覚えさせられてしまう。原典には "32” という数字がついている。これはプーシキンの自注を示すものであって,その注は次のようなものである: Один из наших критиков, кажется, находит в этих стихах непонятную для нас неблагопристойность.「わが国のある批評家はこれらの詩行に無作法を見いだしているらしい,作者にはよく飲み込めないのだが」。ここの記述に猥褻を意図的に盛り込んでいることが,この「作者にはよく飲み込めない無作法」への言及に皮肉に現れているのである。

さて,お次は未来派の巨匠ヴラジーミル・マヤコフスキイ Владимир Маяковский の詩:

Я в Париже.
Живу, как денди.
Женщин имею
        до ста.
Мой член,
      как сюжет в легенде,
Переходит
      из уст
        в уста.
Эротические стихи Золотого и Серебряного века.
М.: «Милена», 2006, с. 208.
 オレはいま巴里
 ダンディみたく暮らしてる
 女の數は
     百もある
 オレのアレは
       語り傳へみたく
 うつろひゆくのさ
         口から
            口へと

член は「項,メンバー,構成部位」という意味だが,隠語では「チンチン」を指す。伝説が口伝えで広まるようにオイラの член が百人の女の口から口へと渡り歩いてオイラは有名 — その発想に大爆笑。

なんとも他愛なく下品ですみませんが,命を賭けて真実を謳い上げたロシアの詩人は,一方で心からなる愉快を子供のように露にし,大笑いさせてくれるわけである。一面的になってはいけない,クソ真面目なだけではダメ,真面目な本ばかり読んでいてはダメだと教えられます。

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プーシキンの『ガヴリーリアーダ』を収録した貴重な全集は,まだ古書で入手できる。ちょっとプレミアが付いているけれども。

プーシキン全集第一巻 — 抒情詩・物語詩1(1973年)


 
アレクサンドル・プーシキン著
川端香男里,福岡星児ほか訳
河出書房新社