問題作『靖国 YASUKUNI』(李纓監督作品,2007 年)を DVD で観た。
ネットの情報によれば,この映画はもっぱら右派の側から「反日的」という批判が噴出し,上映サイドに対して右翼の妨害が起こったりしたそうである。ある国会議員は,日本刀がきわめて重要なモチーフになっているなかで,日本軍兵士が民間人を斬首する写真が挿入されている点を捉えて,「残虐を行ったというメッセージを伝える」政治的意図があると,この映画を否定した。「政治的」なのはアンタだろ。いったいどこに眼を付けているのか。
この映画の監督は中国人である。しかし,「よって反日」と極め付けるのは尚早である。この映画を実際にこの眼で観て,目くじらを立てるほどの政治的な意図を私は感じなかった。むしろ,日本刀という日本文化の至宝を象徴的に用いて,日本人の内なる狂気をうまく表現していると思った。「狂気」と書いたが,私はこれを否定的な意味で使っているのではない。私はむしろ誇ってよいものと思っている。カメラがドキュメンタリーとして提示している刀匠や愛国的参拝者,靖國精神に反抗する者たち(台湾人,小泉参拝反対を叫んでボコされる日本人)の映像は,「侵略戦争を賛美する靖國の伝統」を否定する,というよりもむしろ,「理解を越えた靖國信仰への畏れ」を訴えかけているように思われた。
最後のエピソードに刀匠が徳川光圀の七絶「日本刀を詠ず」を吟誦する場面がある。ここがこの映画のもっとも重要なテーマを表す感動的な場面だと私は思う。
蒼龍猶未昇雲霄 蒼龍猶ほ未だ雲霄に昇らず
潛在神洲劍客腰 潛んで神洲劍客の腰に在り
髯虜欲鏖非無策 髯虜鏖(みなごろし) にせんと欲す策無きに非ず
容易勿汚日本刀 容易に汚す勿れ日本刀
映像の眼は,この詩のとおり,日本刀を軽々しく振り上げない眠れる龍のような存在であると日本人を畏怖しているのである。これは反日の映画ではなく,日本人のクレイジーな側面に畏敬の念を表しているのである。一方で,日本刀が先の大戦で武器としては無抵抗の民間人・俘虜の首を飛ばす意味しかなかったことを揶揄しながらも(この映画を否定するひとは,こちらの副次的側面に過剰反応しているわけだが)。
この映画で重要な役割を担っている老刀匠が,靖國について聞かれたとき,重い口を開いてとつとつと次のような主旨を語る:「小泉首相の靖國参拝について中国,韓国が文句言いよるけど,あんたは小泉さんをどう思うか? お国のために戦争で死んだ御霊を靖國神社にお参りし,二度と戦争をしないよう望むのは,私も小泉さんと同じ。(中国人や韓国人に)怒られるかもしれないけれど」。映画のなかでいろんな愛国的日本人が登場するが,彼らの示威的行動よりも,普通の日本人の意見をこれほど代弁しているセリフはないと私は信ずる。私もこの無口な刀匠とまったく同じ考えなのである(政治家の靖國参拝デモンストレーションに賛成するかどうかはまた別問題だ)。日本刀を鍛える象徴的存在がこの言葉を発する意味は極めて重い。
中国人は,共産主義政権下,宗教や霊的なものを否定している。しかし,この映画を観ると,そういう霊的なものにつき動かされているクレイジーな日本人を理解しようとする中国人もいるのだと思った。じつは,天皇を戴く眠れる龍,クレイジーな日本人がどこか羨ましいに違いない。