朝日新聞阪神支局襲撃事件「実行犯」手記

週刊新潮が 1987 年に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件の実行犯の手記なるものを連載した。これに対し,朝日新聞はその内容の事実関係について独自に調査を行い,手記は「真実性がない」との記事を,今日の朝刊 1 面に掲載している。1987 年当時,このテロ事件 — 「赤報隊」による犯行声明があったからなのだが — は衝撃的であった。こういう事件を面子に賭けて解決し,その背景を明らかにするのが民主的国家の警察だとそのころ思ったものだが,残念ながら事件は 02 年に時効を迎えてしまった。

1 月の終わりごろだったか,電車でこの週刊新潮の吊り広告を見たときは驚いた。この連載が世にどう受け入れられるのか興味が湧いた。数週間たち,やはり事件当事者である朝日新聞がまじめに取りあげたわけである。朝日が報道するように,この手記は悪質な捏造なのだと思う。もし真実なら,時効成立とは無関係に,事件の組織的背景を警察が捜査するはずである。また,犯人は刑事責任は免れても社会的には責めを負うべきである。でも,週刊新潮の広告に,なぜこんなに不安を掻き立てられるのか。気味が悪い。

週刊新潮はきちんとこの手記の真偽を明らかにし,掲載判断の根拠を説明するべきだろう。食品メーカーは産地偽装などの不祥事一発でマスコミの食い物にされて信用を喪失し,倒産の危機にさらされるだけでなく,詐欺罪の刑事責任を問われる。誤報一発で人生を狂わせられるひともいるのだから,マスコミも同様な社会的制裁を受けるべきではないだろうか。週刊新潮の対応が不真面目なら,朝日新聞は報道倫理に基づいて新潮社を徹底的に追及すべきである。

昨年末の元厚生次官連続殺害事件では,犯行声明もないのに年金問題テロではないかとの報道がなされたりした。ロクに検証せずに,衝撃的であればガセでも掲載する。「テロ」などというドキリとする言葉を,どんな制約を付けているかは別として,記事に書いてしまう。その記事の波紋がどのようなものとなるかもまったく考えずに。最近,大新聞社も含め,この種の軽卒が目立つように思う。

また,一般のひとも「テロ」云々をありうることのように受け取ってしまう。何か言ったり失策を犯すとヘンなヤツにうしろからブスリと刺される。そういうこともあるとどこかで納得している。「くわばら,くわばら,君子危うきに近寄らず」。週刊新潮の手記と朝日の反駁について,ネットでは阪神支局襲撃事件に対する怒り・真相究明の要請よりも,むしろ両社への面白半分の悪口ばかりが目立つように思われる。日本はテロリズムに関してロシアや独裁国家と同じ闇をもっている国なのだと思ってしまう。

「実行犯」手記掲載の気味の悪さは,マスコミの質の低下とともに,市民がなんとなく事件を受け入れてしまっていることに起因するものかも知れない。