本を読まない子供たち・国語の先生の思い出

子供たちが本を読まないと妻はしばしばこぼす。私もことあるごとに映像よりも音楽よりも書物が人間の思想の記録として尊いと諭す。でもだめである。テニス,バレーボールか JPOP に夢中である。本よりテレビドラマ,お笑い番組のほうが面白いらしい。まあそんなものか。

ところで小学生,中学生のころの自分はどうだったか? 私もたしかに野球やサッカーに夢中だったわけで,勉強はいわんや,読書も,とてもほめられたほど勤しんだという記憶がない。とはいえ,我が子を見ているとそのころの私の程度すら読むという行為をしない。

小学生のころは二反長半の書いたジュブナイル。日本神話,ギリシア神話ばかりを繰り返し繰り返し読んでいた気がする。中学生の私は星新一ひと筋であったように思う。その一方で,中学一年の担任であった国語の K 先生 — 文学青年であった — がやたらと志賀直哉の凄さについて語るので,私も『和解』を読んでみた。まったくもってつまらないと思った。学校の先生が勧める本は面白くない,という思い込みがこれでできてしまった。

私の子供たちも同じ思いを抱いているのかも知れない。人生において自分のつまらなさに謙虚に気づいたとき子供たちも自分で選んだ本を読みはじめるだろうといまはそっとしておくことにする。

志賀直哉について,その後私は長ずるに及んで『城の崎にて』などを読み,私のなかでこの大作家が名誉回復したことはいうまでもない。

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K 先生は私のよい思い出のなかにある。文学への私の関心もこの先生のおかげだといってよい。けれども,その志賀直哉崇拝以外にも私には素直に受入れられなかったことがある。それは文学作品名の表記のことである。

夏目漱石に『こころ』という小説がある。K 先生 — 私の担任だったほう。『こころ』にも「K」や「先生」が出て来るのでややこしい — はこの作品名を『心』と書いてはいけないと教えた。同様に谷崎潤一郎の『細雪』は『ささめゆき』としてはいけない,文学作品名は人の名前と同じでその表記以外でしるしてはいけない,試験の回答でもこの「正しい」表記で書かないとバツである,と言った。しかし私はその後,漱石に関する本のなかで,『こころ』の原稿印影に『心』と表題がしるされてあるのを見つけ,K 先生 — 私の担任だったほう — の教えの杓子定規に「こころ」の底から嫌悪を抱いた。漱石その人が『心』て書いとったのに『こころ』やないとあかんやてうそっぱちやんけ。岩波漱石全集第九巻 (1994 年刊) でも『心』となっているようである。

文学作品名の表記についてはおそらくいまも K 先生と同じように教える先生が多いと思う。それでよいと思う。教育とはそういうものである。人間を標準型に仕立て上げるのは大事なことである。そうはいっても,それが絶対であるかのように思い込むのもおかしいとどこかで反抗してしまう部分が私にはある。森鷗外の小説に『文づかひ』がある。でもこれを『文づかい』と表記したってよいわけである。ドストエフスキイは『カラマーゾフ兄弟』を書いた。ところがこの作品の本当の名は «Братья Карамазовы» (ブラーチヤ・カラマーゾヴィ) なんだけど,誰も『カラマーゾフ兄弟』という表題を間違いだなんて言わない。あんまり学者ぶるのはやめたほうがよいのだ。