開高健のエッセイ・井上順孝『神道入門』

開高健の芸術エッセイ『ピカソはほんまに天才か』(中公文庫, 1991) とルポルタージュ『サイゴンの十字架』(光文社文庫, 2008),そして井上順孝著『神道入門』(平凡社新書305, 2006) を読んだ。

開高健の芸術論は,己自身の生から湧き起こってくる真実だけを言葉にしようとするところがなによりの魅力である。他人がなんと言おうと耳をかさない潔さがある。彼がピカソの青の時代しか認めないのを読んでも,ピカソのファンは気を悪くしてはいけない。それが作家の生の体験そのものだからである。開高は,有名な画家のタブローだけでなく,漫画や映画,広告ポスターなどに時代の肉・汗・臭・声を求める。対象に対して,見ること,聞くこと,読むことだけでなく,触り,舐め,食い,嗅ぎ,聴き,叩き,裂き ... とやらずには,語ることをしない現実主義者であった。ヴェトナムや中東で繰広げられた惨劇について,報道だけをたよりに語ることに決して満足しない真のヴォワイヤンだった。

開高は戦後日本の借物の底の浅い文化を憂いていた。鬼籍に入って二十年たったいまこの現代に生きていたら,彼はなんと言うだろう。開高を読む度に私は自分が恥ずかしくなる。

井上順孝の『神道入門』は神道の歴史的概観,「言挙げ」しない「神ながら」の道としての宗教特性だけでなく,日本人の宗教観をも素描した啓蒙書である。日柄方位など何気なく日頃口にしたり,見たり,聞いたりしている行為に深く浸透した神道の伝統の話が面白い。

ところで,私は大阪市住吉区にある浪速高等学校という,全国でも数えるほどしかない神道系私立学校を卒業した。中庭に神社があった (そんな学校はおそらく全国で唯一だと聞いたことがある)。朝登校するとこの神社に向かって二拝二拍手一拝をしなければならなかった。一年生の夏,伊勢神宮の宿舎で修養合宿があり,神職から講話を受けたり,食前に祝詞を唱えたりした。陽が昇る早朝,伊勢神宮内の五十鈴川の清流で禊をしたのが痛烈な思い出として残っている。

この学校では宗教科目として神道の授業があった。國學院,皇學館を卒業した先生が教鞭をとっていた。神道というと古事記の神話以来の伝統と皇室が結びついているところから,右翼のイメージを連想するひとがあるかも知れない。しかし,神道の授業は皇国史観を授けるのでは決してなく,日本人のアイデンティティとはなにかということを主なテーマとしていた。祭祀・儀礼の文化人類学的意味を調べるだけではなく,そのほか,和辻哲郎の『風土』やルース・ベネディクトの『菊と刀』を授業で読んだり,賀茂真淵,本居宣長,平田篤胤の神道説,日本の国学の伝統を学んだりと,普通の高等学校では想像できない授業をやっていたのである。私はいまだにその授業で使用された教科書を手元に置いているくらい,浪高 — というのが通称であった — は個性的な学校であった。私の先輩には小説家の藤本義一,落語家の笑福亭鶴瓶,『じゃりン子チエ』の漫画家はるき悦巳,元ボクサーでいまはタレントになってしまった赤井さん —「さん」付け以外で呼ぶことは許されない — がいる。

私は子供のころから日本の神話が大好きだったり,神道教育で神ながらの道を学んだりしたせいか,実は皇国の伝統が好きである。でも自分のことを右翼だとは思わないし,軍国主義的思想は大嫌いである。そもそも共感できない考え方に対して右だとか左だとか極め付けて非難することは意味がないし,愚かしいと思う。

『神道入門』は高校時代の授業でのあれこれを思い出させてくれた。