新書三冊

先週末から,野球やソフトボールを観戦しつつ競技の合間に三冊の新書を読んだ。

白石良夫著『かなづかい入門 — 歴史的仮名遣 VS 現代仮名遣』(平凡社新書 426, 2008年)。「美しい日本」の復古精神が意味もなく盛んになりつつある昨今,歴史的仮名遣いが官公庁の文書でも許容されるようになり — 許容されただけで歴史的仮名遣いで文書を記述するお役人などもはやいるはずもない —,荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬社, 2007),青木逸平『旧字力,旧仮名力』(NHK出版・生活人新書, 2005),府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房, 2001) など,「舊字舊假名遣ヒノススメ」風の書籍が出版され,「正字正假名」なるものでブログ,エッセーを公開する若者がインターネットでもそれなりに目立つようになった。

私も歴史的仮名遣いは学生時代から興味のあるテーマである。表記そのものによって現代日本の文化が豊かになるとはとても思われないが,まあ流行なんだと思う。そんな最近の傾向においては珍しく,というか当然ながらというか,白石の『かなづかい入門』の内容はまるで「平成の旧字・旧仮名遣い信奉者」に喧嘩を売っているようなものであった。

ここでも書いたことであるが,仮名遣いは究極において人工的なルールに過ぎない。普段自ずと出づるかのごとく書いている自然さも教育の賜物なのである。「正字正假名」をその信奉者が合理的だとか正統だとかもちあげるのを聞いて,私もプッと吹き出してしまうほうである。白石はそうしたルールとしての仮名遣いの位置づけとともに,現代仮名遣いが待望された事情を,もっと挑発的に述べている。歴史的仮名遣いが日本語表記の伝統であるとの主張すらをも「伝統の捏造」であるとこき下ろしている。学校の教科書では当たり前になっている,古典文学の表記を歴史的仮名遣いに統一することにすら疑問を呈している。彼の理屈からすれば宜なるかなというところだけれども,「そこまで言うか!」というのが私の個人的感想である。私自身は古典の校訂基準は歴史的仮名遣いのほうが好きである。それでも本書は,「いまからでも日本語表記を合理的な歴史的仮名遣いに戻すべき」などと宣っている頭の悪いひとたちの書物に比べると,はるかに「論理的」に書かれていると思います。福田恆存の『私の國語敎室』なぞを「崇拝」している方は,本書をお読みにならないほうが精神衛生上よいと思う。老婆心ながら。

野田敬生著『心理諜報戦』(ちくま新書 704, 2008)。スパイじゃあるまいし諜報活動などは私たち下々のこだわる範疇外のことである。それでも私たちは日々ニュース・報道を受け取って世界観を形作っているわけで,政府や権力者によって自分の不利益な方向に誘導されてしまうかもなんてことを言われると,少しは情報統制の危険性に対してもアンテナを調整しないといけないかなとも思ってしまう。本書は心理諜報戦の事例や「だまされない」方法の例 (真実はわからないことのほうが多いと野田は語るのだが) を紹介している。人間は「ストーリー」をもとに情報を組み立てるとか,そのストーリーを疑うには「常識」が必要だとか,興味深い指摘が多かった。この本で述べられている過去の事件の解説そのものが正しい解釈かどうか,私にはわかりませんが。

鈴木貞美著『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書 303, 2005)。明治以降の日本のナショナリズムの内容,特徴,背景を概観し,それが西洋と東洋の二極指向によるフィクショナルなものであったことを解説している。啓蒙書としては著者自身の思い入れのような主張があって面白かった。「川端康成と大江健三郎という現代日本を代表する作家のうち,ひとりは国際社会に向けて,『東洋の神秘』への関心に訴え,もうひとりは国際的に開かれた知性をもって,西欧とアジアに引き裂かれた日本のイメージを語った。このふたつの姿勢の対立も,できることなら越えてゆきたい」(p. 266)。「美しい日本」,戦前の強い日本のナショナリズムを取り戻すべきだと考える方は,本書をお読みにならないほうが精神衛生上よいと思う。老婆心ながら。