映画『西の魔女が死んだ』

川崎ラゾーナの 109 Cinemas で『西の魔女が死んだ』を観た。本当なら娘と来るはずだった。けれど娘はクラブ活動を優先した。それで,妻と二人でビールを飲みながらの鑑賞となった。

英国人おばあちゃんのもとに預けられた孫娘が魔女の血をひく老人の影響を受けながら精神的成長をとげてゆくというドラマである。私には「英国風エリート教育のすすめ」のような物語と映る。「魔女,すなわちエリートになりたいか? ならば自分の意志を強くもち,鍛錬なさい」というわけである。これは『ハリー・ポッター』などの英国式ファンタジーと同じ調子である。オックスフォードやケンブリッジのような全寮制の学校に子供たちを閉じ込めてエリート教育を行うあのやり方である。君たちは一般人とは異なる選ばれた者たちである。だから一般人とは違う厳しい,しかし名誉ある道を歩むのだ。ここには,かつて世界を支配した英国一流の,一握りのエリートが魔法のような知恵と見識とをもって世界をコントロールしなければならなかった社会の教育思想があると思う。ノーブレス・オブリージュの精神である。

主人公の少女は登校拒否に陥っている。その理由はいじめである。「クラスにはいくつかのグループができる。そのグループはそれぞれ仲良くやってゆくことができる。どのグループにも属さない一人を敵にまわすことによって」と彼女は言う。そう,いじめに苦しめられている者は,朱に交わらぬ選ばれし者ということ。英国風の選ばれた子供たちの生きる道が,現代日本の一億総中流意識の集団主義的病魔に対するアクチュアルなモラルとなる,といえる。悪くない。「あの子もやっているのにどうして私だけ?」,「どうして私だけがこんなつらい思いをしなくてはならないの?」といった集団主義の裏返しの論理に太刀打ちするためのモラル。

西の魔女,おばあちゃんは孫娘の精神状態に応じてお茶のハーブを選択し,まるでそれによって孫娘の心を制御しているかのようである。自然と生活の知恵の詰まった老人は魔法使いのカリスマをもっている。本当に必要なのは,か弱い老人にやさしい社会ではなくて,体力も資金力もない老人が知恵と見識とでもって風格を備え,影響力を発揮する社会でこそあるということを,私に実感させてくれる映画であった。現代の日本はどうもおかしい,と感じるのは私だけではないだろう。英国風でなくとも老人がかつての日本を語ることそれ自体が意味をもつ時代ではないだろうか。

付記:その後 DVD が発売されたのでリンクを設置しておく。

西の魔女が死んだ [DVD]
角川エンタテインメント (2008-11-21)