北村薫と宮部みゆきの両作家が編んだ『名短篇,さらにあり』は,現代でも奇妙な味わいを失わない古い時代の作品を主にしたその選定において,ちょっと個性的な短編集である。舟橋聖一,永井龍男,林芙美子,久生十蘭,十和田操,川口松太郎,吉屋信子,内田百閒,岡本かの子,岩野泡鳴,島崎藤村。ほとんどが昭和初期から終戦直後に最盛期を誇った作家たちである。
よくできた短編小説は,演奏効果に欠ける室内楽の名曲と同様,ひとり静かにしみじみと唸らせてくれることが多い。これを読まなくちゃなんてわざわざひとにいうのも野暮な,玄人の雰囲気がある。桃李ものいわざれどもである (いまこのブログで面白いよという私は野暮なんである)。要するに拍手喝采ではなく頷くことで報いたい質の至芸がある。この作品集もまさにそんな佳作ぞろいで,選者の粋を思わないではおれなかった。
内田百閒と久生十蘭の恐い短篇は私の愛読するところのもので,いつものとおり楽しませてもらった。とくに,これまでその名を知らなかった作家・十和田操の『押入れの中の鏡花先生』は,快い剽軽でほのぼのと笑わせてくれる一品。鏡花の知遇を得た作者のどこまで真実なのか怪しい私小説なんだけど,大作家が雷を怖がって押入れに閉じこもるところや,蛇めしについて大真面目に議論するくだりを「とうちん」が語る様は,「ふむふむ,それでそれで?」という,楽しいお話を聴くときの幸福感を実感できる。「先生がお化けにつられてだんだん読んでいくうちに,火柱が立ったり,新婚のあやしい美女が真夜中に古庭の釣瓶井戸のそばではだかになって水を浴びたり,月光に肌をなめさせたりする風景があらわれてきたりするので文章のほどはまだ黄いろいが,こいつは面白い話だと思ったのかも知れない」(p. 132) — 泉鏡花への悪意のないパロディを読んで吹き出したのはこれがはじめてである。その他,島崎藤村の『ある女の生涯』は — 藤村にはただただ暗い日本のリアリズム文学の気難しい爺という印象しか私にはなかったのだが — 狂気と幻想をこんなに悲しく果敢なく強く描いてくれる作家だったのかと見直さざるをえない好篇であった。 川口松太郎の明治風人情ロマンもあはれなり。
このクソ暑い季節,出張での移動の合間なんかにちょっとさぼって喫茶店でこんな短編集を読んで,「明治は遠くなりにけり」の感覚に浸るのも悪くありません。
ただこの本,作品の初出の年・書誌をきちんとしるしていないところは,私には許しがたい瑕疵である。これじゃ筑摩の編集者も「らしくない」と言われますよ。久生十蘭作品をこよなく愛する私はさておき,彼についてなにも知らない読者は,『雲の小径』で語られる,終戦後間もないころに飛行機に乗る行為の非日常的雰囲気に,いつ書かれたのかという情報がないと思い至らないのではないだろうか。
今夜は家族で焼き肉を食べた。帰り,川崎西口バス停留所に,なかなか車が来なかった。今日は等々力球場でフロンターレとグランパスのサッカーの試合があり,それで混雑しているんだとぼやく。サッカーのある休日の府中街道の混雑はハンパじゃない。
夜,私がスポーツニュースを観ていたら,妻がなにかの本を読みながら「サッカーなんかで点が入ったらそれで試合が終わるのって『ゴールデンボール』っていうんだっけ?」と真面目な顔で聞く。「そりゃ『ゴールデンゴール』だよ,昔の『サドンデス』じゃ。『ゴールデンボール』じゃきんたまじゃねえか」と私。