花より男子ファイナル,チェーホフ短編集

映画『花より男子ファイナル』(石井康晴監督) が観客動員数において二週連続第一位とのこと。世も末か。

私はこの映画を観たわけではない。テレビドラマを何回か子供たちと観ただけである。お金持ちに憧れるのは別に非難する理由にはならないが,現実社会の陳腐ないじらしさから目を背けてセレブリティ礼賛を煽るのは,俗物根性以外の何ものでもなく,十代の若者を不幸にする。世の中には六本木ヒルズで豪勢な生活を送る者もいれば,アパート代を払うと食費すら捻出の難しくなるワーキングプアもいるわけである。華やかな世界にばかり目を向けさせる『花男』のような作品を観ると私なぞはムカムカする。こんなふうに腐すものだから娘たちに「オヤジ」と言われてしまうんだけど。

ま,『花男』のような現代のシンデレラ伝説は少女マンガの伝統である。要するにワンパターン,紋切型である。女の子たちのノリとしてはどちらかというと,「私にも王子様が現れないかなあ」という期待感よりも,「主演のイケメン男優にきゃあきゃあ言ってストレス解消!」という方がむしろ強いと私は思う。健康的なのじゃ。
 

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岩波文庫新刊のチェーホフ短編集『カシタンカ・ねむい』を読んだ。神西清の名訳である。チェーホフの描く,現実社会の陳腐ないじらしさ,やり切れなさに,久々に打ちのめされた。

本書の一編『アリアドナ』には,美貌にものを言わせて金持ちに「とり入る」—『花男』への俗物的憧れに憑かれてしまったがごとき — 冷たい女が描かれている。『花男』そのものはただのバカでしかないが,『花男』のような偽りの世界に翻弄される人物を描くのはリアリズムとなる。貴族的でないものが貴族的なものを手に入れようとすると「とり入る」という惨めな手段を破滅的につきつめるしかないらしい。アリアドナという名前はおそらくギリシア神話のアリアドネーに由来するに違いない。アリアドネーはラビリントスで迷わないようテーセウスに導きの糸を与えた女神だが,チェーホフのアリアドナは自身がセレブ幻想という迷宮に迷ってしまう。大いなる皮肉である。

チェーホフ短篇の特徴的な手法にシチュエーションの繰返しがある。繰返しの描き方は二回ほど具体を描いておいて「このように何度も何度もやるのでした」とやるのが普通だろう。ところがチェーホフは,同じような愚かな行為を何回も何回も提示する。はじめに訪れたときはこうだった,次はこうだった,その次はこうだった,最後に訪れたときはこうだった。その過程でバカさ加減の微妙な差異が「リアリスティックな幻想」のような姿に変容する。そこが恐ろしいのである。それで顛末を語らず,酷薄な余韻を残して物語が終わる。この数学的帰納法バカはずっと続くってこと。バカは死ななきゃ直らないという残酷な真理を語っているのである。