蓮實重彦 — そのスジの文章,あるいは日本の文系インテリ

論文執筆のために色んな本を読み返していて,次のような蓮實重彦の文章にぶつかった:「デリダがやっていることは,多義性(ポリセミー)の運動を一旦は踏破し,比喩の様々な系列を辿りなおしつつも,しかし,その系列が常にその系列に対する余剰でもなく欠如でもない,ある『空白』の偏在によって可能になっているという事態を,再—刻印すること」(『「知」的放蕩論序説』)。

いやはや,なぜ簡単に「デリダの比喩は適切だ」と言わないのだ。こんな冗長極まりない隠語だらけの文章説明が付け加わるごとに意味が不明になって行く,従属節の込み入った文章を書いているから,大学文学部卒は嗤われるのである。よくもまあ,こんな文章がそのスジではまかり通っているもんだと感心してしまう。これも「ざあます」やら「ごきげんよう」やらのセレブ語と同じで,そのスジの者であることを,その何がしかのステータスを,ただ示したがっているだけではないかと,俺なんかは思う。

「ポリセミー」だの,「余剰でも欠如でもない」だの,「空白の偏在」だの,これはある種の符牒・隠語であって,そのスジの者には,われわれにとっての「爪楊枝」だとか「二日酔い」というのと同じくらい明白らしい。六本木のことを「ギロッポ」という,ある種の人たちとどこも変わらない。なのに,なぜか,そのスジ者 — ちょっと口にするのは憚られるのだが,要するに,「フランス思想」組員 — は日本の文系インテリから非常に尊敬されている。だって,蓮實重彦は東大の総長にまでなったくらいだから。

日本とは不思議な国である。こういうのが戦後のインテリを支配した,ということは,悲劇(というか,喜劇,お笑い)である。

プーシキンは蓮實重彦ばりのこの手の文章を素っ気なく退けている。こういうところにこそ,俺がプーシキンをむちゃくちゃ愛してしまう理由のひとつがあるのである。

「軽蔑すべき妄評家(ゾイロス),その眠ることなき嫉妬心はロシヤのパルナス山の月桂樹に自らの催眠の毒薬をば注ぎかけ,その退屈なる愚鈍さはただ飽きることなき悪意とのみ比較し得る……」。いやはや,なぜ簡単に「馬」と言わないのだ。
『プーシキン全集』第五巻,河出書房新社,p.15。