中学二年になったばかりの娘の授業参観に行ってきた。授業参観はなんのためにあるのか。子供が授業ではつらつとしたところを見たい・見せたいからなのか,世の中の親御さんはどうなんでしょう。私は先生を見に行くほうである。実は子供たちにはあまり興味がない。どうせ授業参観のときはよそ行きの顔をするのだから。
12:50 授業開始のぎりぎりに教室に到着した。教室はがやがやと騒々しい。保護者は私ひとりのようである。時間を間違ったかと案内のプリントを確認したが間違いはない。あれ,ほかの人たちは?なんで授業してないの???? しようがないので教室に入った。なんで時間通りに授業がはじまらないのか。いくら授業参観だからといって,親は客ではないはずである。なんか釈然としない。私は叱られて教室のうしろに立たされたようなザマであった。そのうち別の親御さんたちがぽつぽつやってきた。10 分過ぎくらいか,先生が合図したらしく,子供たちは起立,礼。
国語の授業。文法である。品詞名を書いたカードを黒板に貼り付けて,先生はこのなかで知っているのありますか?と問う。生徒たちは「英語で習ったよ」と言いながら名詞や動詞などを指している。日本の学校における国語の授業が「英語以下」であることを改めて知らされて慄然とする。また,なぜ先生がそれぞれの品詞の役割,それらの違いをひとつひとつ説明しないのかいぶかしくなる。具体的な単語がどの品詞に属するか生徒に「考えさせる」だけなのだった。生徒の言葉の内省に問いかけるのはたしかに意味がある。中学校では,文法というもののだいたいの感じを掴むことが学習の主旨なのかも知れない。
帰宅後,娘に質問してみた。
「今日の文法の授業分かった?『できる』の品詞はなにか分かる?」
「英語の can が助動詞だから,助動詞!」
「あほ,日本語と英語は違うんじゃ」
プーシキンの論文見直しをしている。なかなか進まないよー... でも以前に無理して購入したプーシキン語彙辞典 (Словарь языка Пушкина в 4-х томах, М., 1956-1961: Ozon からなんと 15,000 円ほどで手に入れた掘り出し物。この 50 年前に出版されたソヴィエト・プーシキン研究の精華を,普通の社会人で個人的に所有しているのは,日本広しといえども私だけだろう!),ウシャコフ編4巻本ロシア語詳解辞典(Толковый словарь русского языка под редакцией Д. Н. Ушакова в 4-х томах, М., 2000),そして自作のプーシキン作品コンコーダンスプログラムが,ここにきて大いに役立っている。テキスト解釈の論証に困ったとき,語釈辞典や作品用例を丹念に確認するとブレークスルーが得られることがあるんである。