先日,フリーマントルの『消されかけた男』を読んだ。サラリーマン風のぱっとしない主人公の,それでもスパイ小説特有の孤独なエゴチズムに,現代の英雄を見た。最後のどんでん返しはこれから読むひとのために取っておいたほうがよさそうである。
ソ連崩壊,冷戦終結後の現代,スパイ小説はどうも元気がないのではないかと思う。フリーマントル自身もその後はマフィア物に手を染めている。このジャンルも,ハリウッド映画も最近の世相を反映して,テロリズムとの戦いが主なテーマではないだろうか。ル・カレなどが描いたかつての米ソの諜報戦のドラマには,見えるものと見えないものとの間で密かに張り巡らされる人間模様の面白みがあった。テロリズムとの戦いは米国善,敵対組織悪の図式が徹底していて,あまりの米国標準に食傷してしまう。それはそれで楽しめるのだけど,それで終わりなんである。
私のスパイ小説への思い入れは,ソ連時代の謎めいたロシアの姿にある。自由のない一党独裁国家。思想的理由で政府に追いつめられ,地位も名誉も剥奪される詩人や学者。浮浪者,あるいは公園の清掃夫が,実はかつて世界的業績を残した天才的学者であったりする。見えるものと見えないものとの間の深い意味を考えるのである。ロシアのジョークではないが「何が書かれていないかを探すために懸命にプラウダを読む」ように読ませるのがロシア物スパイ小説の面白みだと思う。塚本邦雄の一首「暗渠の渦に花踏まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ」は,まさにこの謎めいたロシアに見えるものと見えないものの深みを凝縮したのだと思うのだ。
そんなロシアの姿を描いて美しいスパイ小説を二つあげておく。それぞれスパイ小説における私の「静かな隕石」の筆頭である。おそらく世のエスピオナージュファンにとってはベスト 50 にも入らないだろうけど。
退役諜報員アシュウィールドと,ロシア潜水艦技術者の愛娘アイリーナとの,美しくもはかないひと夏の友情の物語。人々が次々とさりげなく消されて行く不気味なストーリの過程に,大人の魂の交感が描かれる。主人公が退役軍人と間違われて電車のなかで席を譲られそうになるシーンなどの細部に,ロシアへの理解と深い愛情が込められている。息を呑むように美しいレニングラード。
大聖堂は老若男女でこみ合っていた。香りが濃くたちこめた内部空間の空気は,司宰者の豊かなバスの声で小きざみに震え,やわらかい風をうけてそよぐトウモロコシ畑のように,高みの聖歌隊が指揮に従って合唱を返すのに合わせて,右へ,左へとさざ波のように漂い動いた。上へ上へ,古い教会堂の高いドームの内部空間の高みへと,鼻にかかった古い教会スラブ語の単語の響きが登っていって,やがて水面に拡がってゆく輪のように吸い込まれる。
なぜこのような一流の作品があまり知られていないのか不思議である。作者は英国人である。この作品以外にも書いているらしいのだが,手に入れられないのが本当に残念である。
スパイとロシア女流詩人の彷徨物語。諜報機関との軋轢のなかで描かれる純愛ドラマといってもよい。美しい詩人はアンナ・アフマートヴァか,マリーナ・ツヴェターエヴァか。
エスピオナージュといえば知的にして非情な語りが醍醐味である。しかしユーモアたっぷりでげらげら笑わせてくれるスパイ小説もある。そんな傑作のなかから,上記二冊とは別に,是非お勧めしたい作品を次にあげる。いずれも入手が難しくなっている。下のリンクから古書を手にいれて幸せなひとときをお過ごしください(そうすると私のささやかな小遣いも増えるというもの)。
ジョージ・ミケシュは亡命ハンガリー人。冴え渡る風刺とジョークの精神は,もうお読みくださいとしかいいようがない。抱腹絶倒のスパイ小説。
こちらは,「引き込まれ型」のお洒落なスパイが,お洒落な料理で相手を籠絡しながら大活躍する,痛快にして優雅な物語。冗談が通じないといわれるドイツ人にもこんな作家がいたんである。登場する料理のレシピまで付いている。