妻が最近,聖書学に興味があって,関根正雄の分厚い聖書学研究著書を読んでいる。私はその思うところの詮索はしないでいる。どういう経緯か,日本聖書学研究所主催の公開講座の案内を見つけて来た。私はさほど関心があるわけでもなかったが,付き合うことにした。今日,文京区小石川富坂にあるキリスト教センターに二人で出向いた。参加料ひとり5百円。
中央大学の前,春日通りから小さな道に折れるといきなり住宅街に入る。雨の降る細い通りは人影もなく,音のない世界に入ったようだった。瀟酒なマンション,高級家屋の立ち並ぶなかにひっそりと富坂キリスト教センターがあった。
題目は北博先生の『黙示文学研究の諸問題と今後の方向』,辻学先生の『パウロ亡き後のキリスト教 — 「第二パウロ書簡」の背景』の二つ。三時間の講義。周りは大学の先生か学生のような方ばかりであった。我々は浮いて見えたんではないだろうか。
黙示文学はバビロン捕囚という祖国喪失の時代を通して変容したという北先生の話が面白かった。神が身近にあって託宣者が曖昧さのない神の声を告げた捕囚前と,謎めいた幻を預言者が解釈する捕囚後の物語構造とを対置する。神が超越的になり「遠い存在」になっていくというのである。告知者から報告者への預言者の変容。意思決定者が直接共同体構成員に語りかける構造から,実体の薄い中間媒体が上部の意思を汲んで通達する構造への変化は,まるで現代の企業みたいで笑ってしまった。
久しぶりに学生気分になった。たまにはアカデミックな雰囲気に身を置く,というのも — 文学のブの字も出ない職場にいる — サラリーマンの心の衛生によい。聖書は,ドストエフスキイやトルストイの小説との関係で,黙示録や福音書をとびとびで読んだ程度で,私は全体を通して読んだことがない。教会スラヴ語訳を手に入れて,勉強を兼ねて読んでみようかな。講義終了後,ドトールコーヒー店でお茶を飲みながら,妻とそんなことを話した。