八月十四日の深夜,北上の CATV で映画『日本のいちばん長い日』を観た。1967 年,岡本喜八監督作品。ポツダム宣言受諾,宮城事件から 8.15 正午の詔勅にいたる終戦の一幕を描いたものである。豪華キャストによる台詞の重い作品であった。
戦後生まれの私には,宮城事件を首謀した陸軍将校に,精神論を振りかざす頭の悪い軍人の青臭さばかりが目に付いてしまう。五一五事件といい,二二六事件といい,宮城事件といい,かつての日本軍エリート将校は,東南アジアの国々の軍人テロリストと同じく文民に従わず,己の立場を精神論で正当化し,結局,敵兵ではなく丸腰の自国民を日本刀で斬り捨てるしか能がなかったらしい。軍人ならば敵地に赴いて敵兵の首を掻き切って来るのが職務ではないだろうか。
大本営にいて「最後のひとりまで闘うべし」などと叫ぶ彼らは,戦地で敵弾に倒れあるいは餓死した兵士や,空襲で焼かれたひとびとや,— この映画の一シーンのように — 岩波文庫を握りしめる兵士や,出撃に先立っておはぎに食らいつく特攻兵や,に対置されると,その政治的天秤のなさと職務への怠慢とをもって,ただただ傍迷惑な存在に映る。わが身の上に引き寄せて譬えてみれば,彼らはライバル会社以上の売込活動ではなく,意に染まぬ社内のひとびとの足を引っ張ることに忙しい営業社員のようなものである。愛社精神には見上げたものがある。でも,「仕事しろよ」と言いたくなる。でも,こういう一途さを「美しい」と思うバカもいるんだな。
彼らとは対蹠的な人物像が描かれる。狂気の反乱軍に取り囲まれながら「君達だけが国を守ってるのではない」と反駁する徳川侍従。反乱軍将校に銃をつきつけられながらも「現在は警戒警報発令中であり,東部軍の許可のない限り放送はできません」と職務に忠実たらんとした NHK アナウンサー。戦時中であろうが平和な時代であろうが,國體だとか精神だとかではなく「ルール」と「仕事」に忠実であろうとするものこそが本当に美しい。そして生き残ったうちのこうしたひとたちが戦後の日本を復興させたのではないだろうか。
ところで,ポツダム宣言を受諾するか否かで閣議は紛糾する。自分たちで決めることができず,結局天皇のご聖断に委ねることに。天皇陛下の「国民の滅亡を回避すべき」との決断で,受諾が決まる。これが日本の政治というものなのだと痛感した。国の大事を議論で決めることができないのである。
また,戦争終結をめぐる天皇の正鵠を射た判断に感銘を受ける。ベルリンが陥落するまで降伏しなかったドイツとは対照的に,日本は本土決戦がすなわち国民の存続に関わるものであるということを「政治的」に判断した。この判断がなければ,日本はドイツや朝鮮半島のように分断されていたに違いない。政治的判断ではなく,指導者の死によってなしくずしの無政府状態で戦争終結の事態になっていれば,本土に攻め込んだ米国,英国,中国,ソヴィエトの各国軍隊によって日本の国土は草刈場になったに違いない。もしかすると米国軍が駐留する今のイラクのように「復興支援」という名目で。戦後処理とはそのようなものではないだろうか。現代の日本人は昭和天皇に心から感謝すべきである。
この判断を下したのが天皇であったことは,近代日本史の大いなる皮肉であるように思う(*)。天皇が政治的判断をしない現在,日本の民主主義は自分で大事を決断できるといえるのだろうか。小池防衛相の言うことを聞かない守屋事務次官。こういう体質は戦前となにも変わっていない証拠ではないか。でも心配はご無用。政府与党はかつての天皇のご聖断に類するものをジョージ・ブッシュに委ねてくれているわけだから。
こんな厳しい映画を撮れたかつての日本人に敬礼! 岡本喜八監督は戦時中の日本人の禁欲的本性を浮き彫りにする。大谷直子・寺田農主演『肉弾』もこの真面目さの風化がテーマではなかったかと思う。『日本のいちばん長い日』の緊張とストイシズムを知ってしまうと,最近の『男たちの大和』や『俺は,君のためにこそ死ににいく』などの日本製戦争映画は甘甘の感傷的ノスタルジアに過ぎないように思われる。腐っている。ハナがひん曲がるくらい臭い。こんな「世界の中心で愛を叫ぶ」ことで死を美化する巧妙な偽善的演出に,冷笑を禁じえないのが俺だけだとしたら,それこそ終末である。岡本の描く人間像からなんとかけ離れてしまったことか。