恩田陸の『三月は深き紅の淵を』を読んで。
目の前にある四百頁余の,四部からなる書物『三月は深き紅の淵を』は,同じく四部構成をもつという謎の小説『三月は深き紅の淵を』について語る。それは,洋館に隠された知られざる傑作であり(第一部),果実のような自然の恵みとしての物語と,作品から疎外された作者を探す旅であり(第二部),暗澹たる生を背負って死んだ少女の,委託された物語のはじまりであり(第三部),飽くことなく虚無を廻り続ける回転木馬のような夢物語である(第四部)。
作品は,追えども逃げて行く至高の物語の探求についての物語,つまり小説についての小説,メタロマンの性質をもつ。作家の「来るべき書物」への憧れを主題としたメタロマンなのである。そして,理想とする物語の探求が構成原理になっていることそれ自体が,回転木馬のように不断に物語り続ける循環性と,果実のように甘美な物語の本質との関わりを示唆する。
モーリス・ブランショや金井美恵子などの小説も,語り,書くことそのものをむき出しに主題化する作品である,と私には読める。彼らの語りは,しかしながら,ストーリーがまるで白昼夢のように現実から剥奪されており,白昼夢のように美しいが,主知的な趣きが勝ちすぎていて,「物語」を素直に楽しめないのだ。カフカの物語はもっと「面白かった」はずだ。
恩田陸は,こうした観念的なテーマをブランショばりの異次元風の超越的世界で語ろうとはせず,メタロマンという構造にあって,作品と作者の危うい関係(明らかな「虚構」とそれを「真実らしく」書く作者の古典的関係)を維持しながら,不断に物語る行為そのもの,書くことそのものの意味を,学園,別荘,旅上などの四つの物語の甘美なカクテルにして馳走してくれる。小泉八雲のイメージ,自然の果実としての物語,学園のエキセントリックな少年と少女,回転木馬,鏡の中の鏡,洋館,どれをとってもじつは陳腐きわまりない紋切型モチーフなのだが,それゆえにこそ私なんかわくわくしてしまうところがある。
その意味とはなんだろう。それは物語ることそのものへの絶え間ない回帰。『三月は...』の最終章は繰返し,繰返し,書き出しに立ち戻る。文字通り,書き出しが決定した(ようにみえる)ところで作品は終わる。書くことのはじまりに向かって終結するなんて,冗談が過ぎるようにみえるかもしれないが,これは書くことの終わりなき循環性を強調しているのにほかならない。はじまりはここで終結と出会い,かちりと円環を閉じることで,それ自体で完成した世界となって,物語は回転木馬のように(!)永遠に廻りはじめる。それが生きることなんだということ。
回転木馬だけではない。鏡も循環性と主客逆転のモチーフである。『三月は...』に「鏡を見るものは鏡に映っているものからも見られている」との文がある(ちょっとニーチェ風になってきたぞ)。はじまりは終わり,見るものは見られるもの。メタロマンが書き出しへの回帰構造,主客逆転への指向をもつのは興味深い。
中井英夫の『虚無への供物』は,偶然性に呑込まれ不条理で抜差しならない現実の事件と,黒死館殺人事件(小栗虫太郎の大作)風の現実離れした,計算されつくした小説の事件とを対置した。こうして,ミステリー小説における事件の本質的幻想性,もしくは豊穣なる空虚さを暴露したのだと私は思う。そしてそれゆえにこそ逆説的にミステリー独自の物語を満喫させてくれる「アンチミステリー」になっている。『虚無への供物』も書き出しに回帰する。そのときカーテンはそよぐのだ。
恩田陸を読んで,久々に中井英夫の作品のような豊穣なる空虚を味わった。中井のような現実の不条理への眼差しには出会うことはなかったけれど。
最近の日本文学の俯瞰図がどうなっているのか,私はまったくわからない。だけど,現代日本の小説の,私の数少ない読書から概して,女流の書くもののほうが圧倒的に質が高いようなのはどうしてだろう。水村美苗にせよ,『バルタザールの遍歴』の佐藤亜紀にせよ,読後になにかこの感動をメモっておかなくちゃと思わせる作品は,最近,ことごとく女流の手になるものなのだ。コンサートに行ってもオーケストラ団員は女ばかりである。どうなってんの? 平安時代の一大女流文学時代の再来か?