吉岡実の散文集

『吉岡実散文抄 — 詩神が住まう場所』という本を丸善の棚で見つけ,思わず買い求めた。思潮社から「詩の森文庫」という新書版シリーズが出ているのを知った。

吉岡実は間違いなく戦後のもっとも重要な詩人のひとりである。私も学生時代に『僧侶』や『神秘的な時代の詩』を読んだ。猥雑でありながら硬質で,先鋭で,また「意味もなく」笑ってしまうようなおかしみもある。

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される
詩『僧侶』より,『吉岡実詩集』思潮社,現代詩文庫 14,1968 年,23 頁。
いかがわしい蘭のからまる少女たち
夜景をまわる夜警たち
その市松模様
暑い夏がくるまで
蛇行セレモニイ
黒くなるべき孔雀
白くなるべきポスター
いつ赤くなる?
詩『神秘的な時代の詩』より,吉岡実『神秘的な時代の詩』書肆山田,1976 年,68 頁。

さて。『吉岡実散文抄』は,内容的には雑誌から乞われて書いたあんまり文学的でないエッセーがほとんであり,私にはこの大詩人の秘密を解く鍵は残念ながら見い出せなかった。しかし,帝國陸軍の輜重兵だった彼の目に見えた満州の光景が『苦力』に形象していることや,西脇順三郎の詩に吉岡自身が登場していること,詩人が現代俳句に傾倒したこと,会社(筑摩書房)が倒産して職安に通ったこと,浅草のストリップ小屋に齧り付いていたことなど,たいへん興味深かった。

現代詩に対する考え方ということでは,吉岡の次の言葉は,思うに,短いが彼の詩精神の核心を突くものだ。「詩は感情の吐露,自然への同化に向かって,水が低きにつくように,ながれてはならないのである」(吉岡実『吉岡実散文抄 ― 詩神が住まう場所』思潮社,2006 年,82 頁。強調は筆者・私)。

現代詩はわからないという人がいる。確かに超現実的な形象があふれ,日常的リアリティに弛緩した精神にとってはたわごとに過ぎないように思われる。でも,詩が「わかる」とはどういうことか。「そうだそうだ」,あるいは「あるある」と共感できること,もしくは「いいなあ」と感じられることだろうか。

現代詩「は」わからないという人は,おそらく,吉岡が言うとおり「水が低きにつくように,ながれ」ないと気が済まないか,詩や文学を食べ物かなにかと勘違いしている。思うに,絵画,映画,ひいては音楽さえをも,食べてその味について云々したがる。「このシーンは非現実的」,「この絵なんか気持ち悪い」,「ここの不協和音は耳障りだ」,とかなんとか。藝術作品を感覚的に「味わう」人たち。

そういう人たちは,評価の定まった作品についての他人の感じ方を鵜呑みにし,さらにそれを自分の感覚だと勘違いしているに過ぎないことも多い。その場合,古典,海外作品,新しい作品をまず自分の目で評価できない。よって「わからない」,「つまらない」,「こんなの文学ではない」に至る。もちろん,それも享受の仕方のひとつである。しかし,そういう出来合いの感じ方を超越した世界・次元があるのだ。

現代詩のある本質をトゥイニャーノフはうまく述べている。1929 年に書かれた文章でなんだけど。「今日,詩について書くのは,詩を書くのとほぼひとしくむずかしい。われわれの時代の悪循環はこのようなものである。詩はますます少なくなり,実際,確実に存在しているのは,詩ではなく詩人たちなのである」(『過渡期の詩人たち』—『ロシア・フォルマリズム文学論集2』せりか書房,1982 年,267 頁)。

現代詩というものがその文法と言葉をそのつど組み立て直してこれを受け入れなければならなくなった — そういうことをこれは言っているのであり,書くことだけでなく読むことが真に創造的である時代の到来を告げているのだ。当然,自己の日常を越えて再度経験を組み立てなければ,理解できるわけがない。また理解できるとも限らない。

それにしても,この本は吉岡実があちこちに書いた小文を集めたものなのに,初出の書誌情報をまったく掲載していない。解説者・編集者はじつに怠慢だと思ってしまった。「十年前,私は...」という文は,時代背景の遡及手段を奪われ,意味不明に貶められてしまう(初出時点の読者は時代の雰囲気を共有しているが,いまのわれわれはそうではない)。

こんな本からはおそらく誰も引用しない(学術的な文献で,という意味で)。書物は「書いてあるとおり」というのは,ただの思い上がりだと思う。ものごとには「背景」というものがあるのだ。

先にあげた『僧侶』を含む吉岡詩集普及版へのリンクを付けておく。私の所有する『神秘的な時代の詩』書肆山田初版はもう古書店で探すしかない。

トゥイニャーノフの論文を収録した『ロシア・フォルマリズム文学論集2』のリンクも設置しておく。彼の「詩と散文」論の具体的検証である『《エヴゲーニー・オネーギン》の構成について』,優れたパロディ論『ドストエフスキーとゴーゴリ』などの名篇が納められている。断言する。これはそんじょそこらの文学論集ではない。現在は古書でしか入手できないようである。
ロシア・フォルマリズム文学論集2 (1982年)


Yu. トゥイニャーノフ,B. トマシェフスキー,R. ヤコブソン
水野忠夫(編)
水野忠夫・小平武・大西祥子(訳)
せりか書房
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