梅棹忠夫『知的生産の技術』

最近,TeX のパッケージ作成に集中していたこともあり,TeX や Perl の参考書を調べることが多く,一般書籍を手に取ることをしなかった。昨日,今日と梅棹忠夫の題記書籍(岩波新書)を読んだ。この本は奥付をみると 1969 年初版の古い啓蒙書だが,さすがロングセラーだけに示唆に富む内容であった。

著者の意見の端々に読み取れるのは,知的な情報を整理して他人と共有できるまでに高めてゆく個人的営みをいかに効率よく進めるかであり,記録の重要性であり,「現在の自分」への絶えざる不信である。「『自分』というものは,時間とともに,たちまち『他人』になってしまうものである」(p.162)。つまり,自分がわかって,他人がわからないのはひとりよがりである,ということを通り越して,他人が理解できない営みはいずれは自分をも裏切るという逆説なのだと思う。

かなのタイプライターを著者が愛用している話が出てくる。梅棹はカナモジ擁護論者に近いことは何かの本で読んだことがあった。私自身はローマ字論者,カナモジ論者の主張に与するものではないが,書記効率を劇的に改善しなければ日本の知的立国に未来はないとまでに考えていた彼らのまじめさは理解できる。文字コードの標準化が進み,ワープロの品質・性能が向上した現在,かなタイプライターなど喜劇的に映らないではないけれども,「情報処理」の草創期の差し迫った思いがわかる。「わたしのつもりからいえば,とにかくタイプライターという機械をつかって日本語をかくのが目標であって,ローマ字やカナモジをつかうのが目的ではない。<・・・>できることなら,いまの漢字かなまじり文を,そのままタイプすることができれば,それにこしたことはないのである」(p.138)。

この悩みを四十年前の話だと笑ってはいけない。いまこの時点をもってしても,標準的なコンピュータではこの国の高等学校で使われる国語の教科書すら完全には記述できないのである。

もうひとつ,心を動かされたところ。「わたしは,まいにちタイプライターでローマ字日本語をたたきだしているうちに,日本語の文章をかくうえに,たいへんだいじなことを,いくつか身につけた。<・・・>第一に,ことばえらびが慎重になった。ローマ字は表音文字だから,むつかしい漢語をたくさんつかうと,意味が通じにくくなる。そこで,なるたけ耳できいてわかることばをつかうようになる。その結果,わたしの文章は,文体からして,すっかりかわってしまうことになった」(pp. 128-9)。現代ではどうか。コンピュータが自動的に変換してくれるので,意味がわからないのにむつかしい漢語をたくさん使うようになっただけではないか。

知的生産の技術
梅棹 忠夫
岩波書店 (1969/07)