躑躅

今日もだらしなく昼過ぎに起きてきて,携帯電話を手にとると,顧客担当者からの着信記録が残っていた。昨日の夕方に三度。あの件かと察しがついて,折り返し電話した。顧客作業の懸案であった作業が終了したとのこと。要するに引き続き弊社の作業をよろしくというわけである。四月中期限で約束した件をいまになって終了しましたといわれても困る。先週頭にこの担当者からは四月末に顧客内で展開し弊社への依頼は五月半ばだと聞かされていたので,子分には心置きなく休みに入ってよいと通達していたのである。担当者にはすでに休暇をとらせているので弊社作業は連休明けからです,と顧客に伝えて調整をすませた。顧客作業の結果メールの確認と休み明け早々の作業指示のため,しかたなく出社した。

出社の途上,歩道に沿って躑躅が咲き乱れていた。ふと泉鏡花の作品に躑躅が印象的に描かれた幻想譚があったなと思う。そう『龍潭譚』である。「前にも躑躅,後にも躑躅」みたいなフレーズの後,主人公はあふれるような躑躅の群れに幻惑され,幻想の世界に踏み込んでしまう。

出社してメールを確認すると,顧客の作業終了を告げる連絡事項に記載された,弊社へのシステム連動設定依頼に不備があり,その旨指摘して,五月七日までに再度確定させて連絡いただけるようお願いするメールを返信した。メールを書いていると,プロジェクトルームにきていた顧客プロジェクトマネージャに声を掛けられた。「あれ,四月末までと聞いたのに今日も出社ですか」—おっと,私が退散することが昨日のうちに顧客責任者に伝わったらしい。少し肩の荷が降りた。「まだ最後の仕事が終わってませんので」。

帰宅して,『龍潭譚』の躑躅の描写を確かめてみた。「行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり」(『鏡花全集 卷三』, 岩波書店, 昭和六十一年, p.4)。

この後,主人公は幻想世界に踏み迷ってゆく。

『龍潭譚』が収録されていて,手軽に入手できる岩波文庫版を挙げておく。

鏡花短篇集


泉 鏡花,川村 二郎編
岩波書店 (1987/09)