小学五年生になる下の娘が二時半すぎに塾に行く。今日は試験だいうのにぼーっとしている。
「おい,なにボケっとしてんの?準備はしたの?」
「イメージトレーニングしてんの。100点とるの。」
まったく口が減らない。
なんで小学生から塾なんかに行かなきゃならないんだろうか。馬鹿馬鹿しい。まず学力がいまいちだからなんだけど,もうひとつ,学校は応援団だと割りきってしまったからなのだ。
去年,授業参観にいった。
分数の授業である。図が黒板に掲げられている。正方形を三列三行九つに割って,さらに中央に縦の点線が引いてあり 1/3, 2/6, 3/9 が同じ大きさであることをイメージ付けする。たしかによくわかる図である。
約分について学ぶのかな。ぼくももう一度新鮮な気持で教えてもらおうっと。
先生が説明をする。
説明のあと先生はプリントを配る。そこには,二等分,三等分 ... 十等分した目盛の付いた同じ長さの線が縦に並んでいる。子供たちは,「先生,これ分数の同じ大きさのところに線を引けばいいの?」とか,「ちょっとよくわかんない」とか,「約分って何?」とか,めいめい勝手に発言する。先生は,まったく自尊心が傷つかないのか,怒りも注意もしない。そのひとりごとみたいな質問を取り上げて補足することもあり,耳に入らなかったのか無視することもある。補助教員(なんてのが控えているのだ)がつかつかと生徒の脇に歩み寄って,ひそひそ何かささやく場合もある。
手をあげ,指された子供は,意を決して起立して,みんなが注目するなか先生に質問し,一方先生はみんなのためになるよう,これに対峙する。そんな,あの私たちの学校の光景はない。先生が質問を出して,手をあげさせ,指名して答えさせるというのもまったくない。
まるで国会のやりとりのようではないか。議長指名の議員が質問するわけだが,後ろから「わかんねーよ」,「知りもしないやつがなに言ってんだー」のような野次が絶えないのと同じではないか。
「約分って何?」との声に,同じことを考えていた私はどきりとしたのだが,国会の野次と同じくやり過ごされてしまった。子供は自分勝手に発言し,無視される。当てられて,正解を誉めてもらえることもない。こうやって自分勝手で報われない子供ができあがるのか,とちょっと暗いことを考えてしまう。補助教員も「暗躍」しているように見えてしまう。
先生は涼しい顔をしている。
子供たちは約分がわかったのだろうか。先生は子供たちの反応を気にしている様子がない。「わかった?」となぜ問わないのか。やって,やらせて,誉めるのが教育の基本ではないのか。時間がきたので終わり。これは大事なことだろう。これこそ客観的というものである。
どうも学校の位置づけは,私たちのころと比べると,変質してきたらしいのだ。この若い先生だけがこうなんだろうか。違うと思う。
学校はいまや,未来を担う子供たちを育てる聖域ではなくて,所定の時間勉強をさせる行政サービスである。授業をとり行うが,子供の身についているかどうかは「自己責任」らしいのだ。しかも事業計画のない「理念」だけの行政サービス。目標や計画がないから成果の評価も免れる。理念は唱えていればよい。
子供を叱れるわけがない。納税者の子弟なのだから。第一,勉強を教えるのが仕事なのに,どうして叱る必要があるのだ。叩いてケガなんてさせたら誰が責任をとるのか。みんながわかったかなんて気にするのはナンセンスだし,無理。だって利口者もいればバカもいるのが世の中なのだ。子供たちを競争させてはいけないのである。負けた人間が可哀相ではないか。誉めたり,けなしたりするとエコひいき,不公平になるじゃないか。いじめの原因になるじゃないか。こうして子供は先生を畏れぬようになり,己のバカさ加減 — 試験の成績が悪いということに限定されない — に気づくこともなく,長じていきなり世の不条理にさらされる。昔気質の先生はウツ病になっていく。先生は大変な職業なのだ。
時代は変わった。学校はもはやトレーナーではなく,負けた人間に実は冷たい応援団でしかない。勝っても負けても責任がない。日本の未来にも責任がない。無限責任は無責任に簡単に転嫁されうるというわけだ。すばらしい理念はある。でも考えてみればこの構造は本質的にはいまに始まったことではない。自分でやるしかないのである。それにしてもねえ。
家で娘に聞いてみた。
「今日の授業で,約分のことわかった? お父さんは 1/3 と 3/9 が同じなんだということしかわかんなかったんだけど。」
「塾でやったから知ってるよ。」
約分とは,正方形のあの図から「達観」すべきものなのだということがやっとわかった。大学でもやらない高度な授業を聴いたわけである。学校で「空気読めよ!」という言葉がはやっているそうだ。あほらしい。