オネーギン第三章

プーシキンの『オネーギン』第三章はオネーギンとレンスキイの会話ではじまる。詩の形式に押し込まれた口語会話文は散文小説のものとは明確に異なる陰影をもつ。詩形式について今日は注目。

『エヴゲーニイ・オネーギン』は韻文小説である。十四行からなる詩行で一詩節をなす韻律が全編を一貫する。作品中に挿入された『タチヤーナの手紙』,『娘たちの歌』,『オネーギンの手紙』は,この詩形式の例外である。

詩行は四脚イアンボス格と呼ばれる韻律に基づく。これは二音節詩脚が四つ連続し,偶数音節にアクセントを有する(弱強格)。イアンボスは古典ギリシア詩以来の古典的詩格のひとつである。詩節は aBaB / ccDD / eFFe / GG という一定の押韻法で構成される。同一英文字で表現した対詩行の行末がそれぞれ韻を踏む。脚韻は末音節上のアクセント有/無によりそれぞれ男性韻/女性韻と呼ばれ,スキーム中の英大文字は男性韻,英小文字は女性韻で押韻する詩行を示す。四脚イアンボス詩行は,男性韻では八音節であり,女性韻ではアクセントのない音節が行末に位置する九音節となる。詩脚のアクセントはしばしば欠落する。これが詩のリズムに起伏を与える要素になっている。

四脚イアンボス詩行( _: 無アクセント音節, /: 有アクセント音節, |: 詩脚区切り)

_/|_/|_/|_/|  (男性韻)
_/|_/|_/|_/|_ (女性韻)

第一章第一節を例にとり,詩節のスキーマをドイツ式翻字法で示す:

a: Moj djá|dja sá|mych čést|nych prá|vil,
B: Kogdá | ne v šút|ku za|nemóg,|
a: On u|važát' | sebjá | zastá|vil
B: I lú|čše vý|dumat' | ne móg.|
c: Egó | primér | drugím | naú|ka;
c: No, bó|že moj,| kaká|ja skú|ka
D: S bol'ným | sidét' | i dén' | i nó|č',
D: Ne ot|chodjá | ni šá|gu pró|č'!
e: Kakó|e níz|skoe | kovár|stvo|
F: Polu|živó|go za|bavlját',|
F: Emú | podúš|ki po|pravlját',|
e: Pečál'|no pod|nosít' | lekár|stvo,
G: Vzdychát' | i dú|mat' pro | sebjá:|
G: Kogdá | že čért | voz'mét | tebjá!|

一詩節は物語のプロット,場面と対応し,末尾においてしばしば警句表現が詩節を引き締めるなど,韻律は作品の意味構造そのものと相互影響下にある。

詩において音声要素は抜きさしならぬ役割を果たしており,『オネーギン』の音韻・リズムの妙は作品発表当時から多くの詩人・研究者が書くところである。これはロシア語でないと味わうことができない。詩に限らず原語でないと把捉できない言葉の陰影があり,専門家には『オネーギン』の本質は翻訳では理解できないことを強調するものもいる。しかし『オネーギン』の詩的構造の面白さは日本語訳でも十分に味わえる,と私は思う。

たとえば次の,タチヤーナが恋文を送ったあと,オネーギンの来訪に激しい動揺を覚える場面:

三八
かかる間も胸はうずいた。
物憂げな眸に涙はあふれていた。
ふと馬の蹄の音! ......さっと血がひく。
もう近い! 飛ばしてる......邸へはいった。
エヴゲーニイだ! 「あっ」と叫んで影より軽く
タチヤーナは裏玄関へとび出した。
階段おりて戸の外へ出てまっすぐ苑へ
走る 走る。あとふり返る
気力もない。花壇 小橋 芝生
湖へ出る並木道 小さな林
またたくうちに駆け抜けて
リラの茂みを踏みしだきつつ
花の畑の間を縫って小川のほとりに辿りつき
息もたえだえベンチの上に
三九
はたと倒れた......
          「うちへいらした! エヴゲーニイさま!
ああどうしよう! どうお思いになったろう!」
[3, pp. 144-5]
 

これは詩節を飛び越えて,女主人公の衝動的心理状態を「明示」している。

また一例。

[ ... ]
「冗談だろう」「とんでもない」「ならいいよ」
「いつにしようか?」「今すぐにでも。
よろこんで迎えてくれるに違いない。
さあ行こう」
      二人は馬車を走らせた。
向うへつくと 客をよろこぶ昔の流儀
下へもおかぬ歓待ぶりに
ときにはうんざりするくらい。
ご馳走はだれでも知ってるれいの品々
小皿に載ってジャムが出る
こけももの汁のはいった水差しが
蝋引きの卓におかれて
...............................................................
...............................................................
...............................................................
...............................................................
...............................................................
...............................................................
[3, pp. 104-5]
 

詩行の足枷が散文的な会話で強調されている。いまにも抜け出したくてうずうずしている。短歌形式で書かれた口語会話文を仮に想像してみるとよい。また詩行の欠落は,詩の韻律があればこそ知覚されるところとなって,田舎の「うんざりする」「れいの品々」の省略をコミカルに,示威的に強調する。

詩形式であるがゆえのこのようなダイナミズムは日本語訳でも理解できるのである。音韻の規則的スパイラルが造形する幾何学的構成美は,原典でないと感じとるべくもないけれど。木村訳も五音と七音の語句を中心に,微妙に八音をとりまぜ巧妙に日本語のリズムに移し変えている。
 

エヴゲーニイ・オネーギン
アレクサンドル・プーシキン
木村 彰一 訳
講談社 (1998/04)