プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』を,木村彰一先生の名訳で再読。第一章の語りのなかで,文学表現に対する詩人の考えに少し注目。
まさか詩人は叙事詩の中で
自分以外のだれかのことを
書けぬわけでもあるまいに。
[1(章),p. 57(木村訳本ページ)]
『[ ... ] おまえはいったい
だれをたたえて歌ったのか?』
いや 友よ だれでもないのだ!
[1,p. 59]
さて恋がさめればミューズが現われ
曇った知性も澄んでくる。
ほっとして私はまたもさがし求める
心を魅する韻律と 感情 思考の結合を。
[1,p. 60]
現実・経験と文学表現とに一線を画そうとする詩人の姿勢については,もう少し考えないと。いまではこの手の問題論は陳腐に映るかもしれないが,この場合そうではないと思う。ここでプーシキンは,現実をも,文学をも主眼にしていない。その「間」を凝視しているのだ。こんな醒めた「小説」は現代でも珍しい。