安部公房はオペラが大嫌いだったそうだ。美しい旋律の代表としてモーツァルトをも嫌っていたらしい。音楽はバロックや20世紀音楽が好みだったとか。ドナルド・キーンが「本物の天才」のエピソードとして書いていた。私にとっては興味深い話。
私は「才能」に焦がれていて,しかも無縁であるけど,安部のモーツァルトやオペラを嫌う感覚はよくわかる。私も学生のころモーツァルトは退屈だった。バッハと現代音楽が好きで,安部と全く方向性が同じではないか。今にして思えば私の場合はちょっとスノッブだったんだと思うけど。
西欧の豪華,絢爛,華麗,洗練よりも,むしろ簡素,荒涼,枯淡,無造作に惹かれる。でもこれは,花も紅葉もなかりけりという,日本人の趣味としては古来の伝統ではないか。
花はさかりに,月はくまなきをのみ見るものかは。(兼好)
調子悪い。今日は3時まで寝てしまった。それでも社会人かよ。
ynagata
後,3週間ちょっとで,モーツァルト生誕250周年ですね。私も30歳くらいまでは,モーツァルトの作品に特別な思い入れは全くありませんでした (^^;
バッハ,ベートーベン,ブラームス,メンデルスゾーン(おっと,ドイツ系ばかり ^^;)の方がずっと「カコイイ」と思っていました。
でも,今は,違います。やはり,モーツァルトは (・∀・)イイ!! それも滅茶苦茶 (・∀・)イイ!! モーツァルト抜きの人生なんてちょっと考えられません (^^;
どこまでも「澄んだ」ピュアな音楽。
多分に感傷に囚われていることを承知の上で言ってしまえば,モーツァルトの音楽はあらゆる批評を超えている気がします (^^;
(嘘かホントか知りませんが)胎教はもちろん,植物の生育や,乳牛の乳産出量にもポジティブな影響を与えるということですから,彼の音楽はひょっとしたら,良い空気や美味しい水同様,(なるほど「アマデウス」という名前であるとはいえ)人間の手に成るものにしては意外にも,極めてエレメンタルな存在物なのではないか,という気さえしてくるほどです。
若い頃,私は,音楽は高度な抽象芸術だから「歌=声」などいらぬ,器楽こそ音楽,などと考えていました。ですからオペラには(中身=テクストを知らなかった,ということもありましたが)全く興味はありませんでした。
が,皮肉にも,私がモーツァルト音楽の魅力に振り返らされたのは,あまり気乗りせずも出かけたとあるオペラコンサート会場においてでした。それが『魔笛』との初めての出会いでした。それまでは,その中のいくつかのアリアのさびの部分のメロディーを除いては,私はこの高名なオペラをほぼ全く知りませんでした。見たことはもちろん,レコードやCD等で聴いたことすらありませんでした。
当時は,ドイツ語の歌詞などほとんど全く聴き取ることができませんでした(レチタティーヴォ部分ならともかく,アリア部分をちゃんと聴き取るのはネイティヴにとっても難しい,と同伴のドイツ人が慰めてくれました)が,よく分からないながらも,とにかく圧倒され,拭いがたい強烈な印象が私の中に刻み込まれました。
後日,詳しいリブレット付きの CD を買い求めて,歌詞とつきあわせながら『魔笛』をじっくりと聴いてみました。
完膚なきまでに叩きのめされました。音楽とテクストが — なぜこんなことが一人の人間技で可能なのだろうか —「どこからどこまでもどんぴしゃ」なんです!
パパゲーノのコミカルなアリアから,(パミーナを想う)タミーノの切々たるアリア,絶望でブチ切れた夜の女王の絶叫のアリア,そして,ザラストロの歌う荘厳なアリアに至るまで,全ての音楽が全てのテクストと「完全結合」しているのです。音楽が,それぞれの登場人物の「内面の声」までをも,見事なまでに具現しているのです。「俗」と「聖」の間の距離をものともせず,この間を自由自在に行き来する(ことのできる)モーツァルトの精神の振幅って一体何?
# モーツァルトの性向に関しては,よく彼の「糞尿趣味
# (スカトロジー)」だけに焦点が合わされ,徒に彼を貶
# めようとする向きもあるようですが(もちろん,そんな
# ことでモーツァルトが貶められるわけでもありません
# が),あれなんて明らかに無意味。「うんこ」だって「○
# ○○」だって,確固たる自然物かつ実存物なのです
# から,ピュアで澄んだモーツァルトの精神がこれを取
# り上げたって「これでいいのだ」。話が矮小化してし
# まうのは,とてつもなく大きな振幅を持つモーツァルト
# の精神を,単に「うんこ」等々にだけ回路付けしようと
# する悪意があるから。
この体験を機に,私は,『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』等々といった,彼の他のオペラも聴くようになりました。イタリア語はほとんど分かりませんが,テクストに音楽が完全結合している様をここでも予感します(例えば,「恋とはどんなものかしら(フィガロ)」なんて絶品です)。
こうして私は,(それまで特別の思い入れもなく聴いてきた)『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』や『交響曲第41番ジュピター』等々といった曲をも,改めて聴き返してみました。 (・∀・)イイ!! 無茶苦茶 (・∀・)イイ!!
これはちょうど,思いっきり不味い水道水を飲んだり排気ガスが充満した都会の空気を吸わされたりしたとき,フト,普段はことさら意識することもない水や空気に改めて想いを致す,というようなことと少しばかり似ているのかもしれません。モーツァルトの音楽は,水や空気のように,どこまでもナチュラルなものだから,特に意識もしないし,する必要もない。バックグラウンドで流し続けていても,何の邪魔にもならない(ベートーベンの楽曲では,そうはいかない!)。
試しに,彼のラストシンフォニー「ジュピター」のスコアを改めて見てみました。のけぞりました。
確かに「ハ長調」で書いてある! だから,調性記号なんて付いてない!! 第1楽章の冒頭なんか,「ドー,ソラシド,ソラシド」!!!
何という単純さ。何という晴朗さ。
すみません。こんなことを書き連ねてきたら,何だか無性に映画『アマデウス』が見たくなってきました。
サリエリの「モーツァルト! (私を許してくれ!)」という絶叫をバックグラウンドに,『ドン・ジョヴァンニ』の序曲で幕が開く・・・召使達が主人(サリエリ)の部屋に夜食を持ってくるのだが,ドアが閉まっており,その上,ドア越しに何やら不可解な呻き声とクラヴィーアの鍵盤上に倒れ掛かって出たと思われる不穏な不協和音が漏れ聞こえてくる・・・ドアを蹴破って中に入ると,自刃を謀りながらも完遂すること叶わず床に倒れこむ老人の姿が。と同時に『交響曲第25番ト短調第1楽章』の旋律が流れ出す・・・
それでは失礼致します。
isao
コメントありがとうございます。
私もモーツァルトに,聴いていて突然なぜかゆえ知らぬ震える感動を覚えます。後期のピアノ協奏曲,弦楽四重奏曲,ピアノソナタ。交響曲プラハの序奏の光と陰。
年をとるに従って身にしみてきます。イデオロギーや階級や民族や歴史や個性や大衆や。。。なにもかも越えたなにかに触れた気がします。
「これはちょうど,思いっきり不味い水道水を飲んだり排気ガスが充満した都会の空気を吸わされたりしたとき,フト,普段はことさら意識することもない水や空気に改めて想いを致す,というようなことと少しばかり似ているのかもしれません」とのご指摘!
純粋というものの意味がわれわれにはわからなくなっていますね。