妻から村上春樹『色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年』(文藝春秋社刊,2013 初版第一刷)を借りて読んだ。
理由のわからない不当な疎外感の原因を探って,記憶の人のいる場所を巡る行為を,巡礼と位置づけている。巡礼とは宗教色の濃いことばであり,人生をどこかで誤った魂の傷を恢復させようという実存的意図が感じられる。主人公・多崎つくるは,仲睦まじかったグループの友人たちから,ある日突然,理由を告げられることもなく絶縁される。それが深い心の傷となる。じつは,これは,彼が自分の知らない間に,密かに憧れていた女性シロからレイプ行為のあらぬ咎をなすりつけられたためだったとわかる。
多崎つくるは,個性豊かな友人など記憶のなかの人々が色の付いた名前を持つのに対し,自分の名が無色であることに疎外感をもっている。こういう根拠のないけれども妙なこだわりをしないではおれないコンプレックスはあるものだと思う。色のない人間であること。私は作品を読んでいて,多崎つくるの妙なコンプレックスに共感を覚えるとともに,自分もかつては色のある人間でありたかった,しかし,いまは色のない人間であることのほうに意味を見いだすようになった — そんなことを考えた。「色」を「個性」と読み替えてもよい。こういうコンプレックスはなんらかの共同体からの疎外感があるからこそのものである気がする。
多崎つくるは巡礼の果てに生を取り戻したのか? たしかになぜ自分は絶縁されたのかという疑問は解かれた。しかし,結局,自分にレイプされたと偽った可憐なシロが,なぜに殺害されなければならなかったのかという理由は不明のままである。こういう物語のひとつの悲劇的核心がサスペンドされていることで,生きることを巡る本質的欠落感というものを知る。わからないことは,わからないで終わることだってある。
作品では駅や土地が意味のある表象となっている。万人が利用するインフラとしての駅舎の設計に携わる主人公は,疎外されながらも,世間とほとんど交わることがなくても,なんらかの社会性の繋がりを体現しているかのようである。旧友のいる名古屋,自分のいる東京,そしてシロが皆に知られることもなく住まった浜松 ー それは名古屋と東京の中間地点である。シロは名古屋と東京からの引力に引き裂かれたゆえに殺されてしまったのかとも妄想してしまった。
Liszt «Années de pèlerinage», Alfred Brendel CD's.
ところで,本作品のおかげでリスト『巡礼の年,第一年 スイス』の CD がよく売れたそうである。この曲集のうちの第八曲 “Le mal du pays”(郷愁)が,つくるの記憶のなかでこの上もなく美しいシロが奏でるピアノ曲であり,ラザール・ベルマンのピアノによるドイツ・グラモフォン盤がシロの記憶と結びつけて頻繁に言及されているからである。シンプルな旋律線に特徴のあるモノローグのような物思わしい小品である。
うむ。私としては,ラザール・ベルマンのグラモフォンよりもアルフレート・ブレンデルの PHILIPS 録音(Franz Liszt - «Années de pèlerinage», Première année: Suisse. Alfred Brendel, piano. 1987 年,西独 PHILIPS 輸入盤)が好みで,昔から後者を聴いて来たんである。そういう意味で,物語の最後,つくるがフィンランドのクロを訪れたとき,クロがつくるの求めに応じて『巡礼の年』ブレンデル盤をプレイヤーに掛けるくだりに,私はビビッと来たのでありました。演奏の違いに魅力的な女性の存在感の違いを現しているかのような,まったく根拠のないことがらに,なんと奥ゆかしい意味を与えていることかと。
物語とは,現実と想像との間をなんの根拠もなく繋げてしまう。それに勝手に感じ入ってしまったってよいではないか。
ブレンデルとベルマンの録音 CD のリンクを設置しておく。ブレンデルの CD は,私の手元にあるのは PHILIPS レーベルなんだが,いま市場に出回っているのは DECCA のレーベルが貼られているようである。