ワールドカップ閉幕

ドイツがアルゼンチンを下し,見事優勝した。ドイツ国民には本当におめでとうと言いたい。ドイツ代表は,選手交代で誰が出ても攻守のバランスのとれた,メンタルの強い,そしてミス・汚いプレーの本当に少ない,素晴らしいチームだった。サッカーの強さはその成熟した国民性のごくごく一部でしかないかのような,どこをとっても素晴らしい国,素晴らしい国民。そういう印象があった。日本もこういう国にならなくちゃと徒な願いをしてしまった。

MVP はアルゼンチンのリオネル・メッシ選手だった。メッシは,代表ではダメダメと言われ続けて来ただけに,やっと本来のパフォーマンスを発揮できたんじゃないかと思う。MVP に値するのは認めよう。でも,とくに守備において付け入る隙を与えなかったドイツのノイアーこそが私にとっての MVP である。今回のワールドカップはスペインのグループリーグ敗退などの波乱があったが,思うに,守備力に秀でたチームが頭角を表すという著しい傾向があった。メッシ,イグアインの攻撃力が注目を集めたアルゼンチンだって,ベルギー戦での脇目も振らぬ懸命の守備には感動させられた。それだけに,「攻撃的サッカー」を目指した日本の敗退は — 守備ではミスを連発していたわけで — 喜劇的に映ったのである(「自分たちのサッカー」という意味不明の合言葉はいまや笑いのネタに近い)。

ワールドカップも閉幕。スポーツの祭典のウラでキナ臭いことが起きているのも,いつも通りであった。ウクライナの内戦,イスラエルとガザとの紛争。新聞・テレビのニュースをみていると,ロシア,イスラエルが弱いものいじめをしている印象を植え付けようとするメディアの意図を感じるが,そんな単純な話ではないようだ。

ウクライナ政府は自国民に対して軍隊を発動させていること自体,すでに国家としての態をなしていない感じがある。ロシアがウクライナに対してガス供給を止めて弱小国を抑圧している — みたいな米国プロパガンダが支配的なわけだけど,そもそもウクライナは使ったガスの料金をまったくロシアに支払っておらず(では,国民が払ったガス代はどこに消えたのか?— ダチョウ好きのヤヌコヴィッチ大統領や美し過ぎるティモシェンコ首相などのウクライナの政治家が自分のポケットに入れちまったんじゃないのか?),そりゃプーチンも怒るわいな,ガスを止めるわいな。

しかしながら,Facebook では,ロシア人の友人もウクライナ人の友人もたくさんいる。さらにはイスラエル人,イラン人の友人もいる。韓国人,日本で暮らす中国人の友人もいる。そういうコミュニティにいると,今般の国家間の対立についての投稿やシェアされる記事に対する反応では非常に気を遣う。無責任な肩入れや,くだらないナショナリズムの所作は,みっともないので慎むようになるものである。

イスラエルの爆撃で亡くなったガザの子供たちの無惨な屍体の写真などがアップされていて心が痛んでも,日本人は反イスラエルに与する立場にない。だって同様にイスラエルの子供だってハマスに殺されているからだ。慰安婦問題で日本バッシングを続けながら一方で韓国がライダンハン問題や米軍慰安婦問題から目を背けているという批判記事を,ある外国人がシェアしていたりしても,その記事に対して日本人の私が支持を表明し囃し立てるのは,偏狭な韓国政府と同じ愚かな振る舞いになる(ソウルオリンピック以前の暗黒の韓国を知る日本人には,韓国のヴェトナムでの蛮行も国策的売春も「何をいまさら」の話なんである。天に向けて吐いたツバはてめぇに降り掛かるわけで,日本人がわざわざ韓国に対して毒づく必要はない。「歴史」を忘れるという特性において,日本と韓国とは義兄弟のようなものじゃなかろうか)。

付記:ロシアとウクライナはかくのごとく憎み合っている次第なんだけど,ロシアの振る舞いを徹底糾弾しているウクライナ人が私の投稿したロシア文学・音楽関係の記事に LIKE をクリックしていたりするのを目にすると,藝術に関する度量の深さというか,精神の自由度の高さというか,欧州の人たちの器量に感心させられることが多い。最近流行の嫌韓日本人は,韓国というと政府の異常な反日行為のみならず,芸能でも,スポーツでも,なんでもかんでも無条件に罵倒したがるXXばかりだからだ。