吉永南央『萩を揺らす雨』

吉永南央『萩を揺らす雨 — 紅雲町珈琲屋こよみ』(文春文庫,2011 年)という,美しい表題の短篇集を読んだ。これは妻が朝日新聞書評で見出した本。

主人公・杉浦草(そう)が人生最後の事業としてはじめた珈琲と和食器の店『小蔵屋』の日常で起こる物語である。老人の視点から物語が語られ,老い,連れ子への虐待,親子の絆,老いらくの恋心など,現代日本にあって身につまされる問題がテーマになっている。テーマが真面目なんだけど,文章もまた生真面目なのである。吉永南央は私より二つ年下なだけで,決して若い作家というのではないけれども,私は何故か,バブル崩壊後にハッと覚醒しもう一度地道にやり直しはじめたというような,そんな新生日本の若い生真面目さを感じた。衒いや気取りがまったく,どこにもない。ちょっと生真面目過ぎるのもどうかな,なんて思ってしまうくらいである。

五篇収められているが,表題作の『萩を揺らす雨』が,雨に濡れる老人を視るように,切なくて切なくて,哀しい好篇だった。老いた政治家・大谷が,亡くなったかつての愛人・鈴子の葬儀に幼なじみ・草を遣わし,彼女から鈴子の骨を受けとる。すると彼はそれを食ってしまう。

 大谷の手のひらの白いハンカチに,鈴子の骨片があらわれた。たぶん箸で拾い上げたのと同じ,手の指だろう。[ ... ]
「かえってそばに置くのが辛ければ,わたしがお寺さんに供養してもらう。どうしようか」
 大谷は強く首を横に振った。そして,誰にも取られまいとするように,鈴子の骨片を口に含んだ。束の間,口元を軽く緩ませると,こもった鈍い音を立ててゆっくりと骨を噛み砕き,飲み込んでしまった。飲み下しきれないのか,数回,たるんだ皮膚をのせた喉仏が上下する。
 一瞬眉をひそめはしても,草はそんな大谷に微笑むしかなかった。骨はどんな味なのだろう。苦い後悔の味か,鈴子の優しさに似た味なのか。草にはわかりようもなかった。
 松葉に雨が滴り,萩の葉には銀色の水滴が散っていた。ジジッと鳴いた蟬が,木から木へ飛び移る。
「これで,ずっと一緒だ」
吉永南央『萩を揺らす雨 — 紅雲町珈琲屋こよみ』文春文庫,2011 年,pp. 258-9。

このくだりはビビッと来る。骨になった鈴子。忘れられない鈴子の骨を食う大谷。秘かに大谷を好いている草。この三者の思いはそれぞれ交わることがないが,この雨の風景のように静かに響き合う。萩は秋の花。なのに銀の雨が潤す夏の嫩い葉に焦点を当てた微妙な季節感のズレが,骨を噛み砕く老人と彼を思う老女を,いよいよものあわれにする。

作品は老女・草の和装描写でも心憎いものがある。老いてなおも抱く恋心で,着て行く着物を草が選ぶくだりを引用しておく。なんとも味がある。こういう細部の描写を的確にして心憎いと思ってしまう俺ももう年か?

 店の奥が草の自宅になっている。麻の日傘を居間の上がり端に用意して,隣の和室に行く。少しよそゆきにしたくて,さっと紗の博多八寸帯に替えようと,草は姿見の覆いをはね上げ,帯締めを外し,動きやすいヤの字に締めた縞の半幅帯をほどき始めた。長襦袢は着ているので,帯をお太鼓にすればきちんとした印象になる。
 しかし,伊達締めだけになったところで,はたと草は手を止めた。
 — 馬鹿馬鹿しい。
同書,pp. 209-10。

このように,本書には和装,和食器の渋い描写が鏤められている。しかもまったくこれ見よがしなところがない。そうはいっても,森茉莉の『ドッキリチャンネル』を読んだあとだからか,ひとつだけひっかかったところがある。蕎麦猪口の「猪口」に「ちょこ」とのルビ(p. 13)。モリマリさんの堅苦しいイビリ声が聞こえる:「最近の若い人は蕎麦猪口を『そばちょこ』なんてしたり顔して読むんだけど,これは『そばぢょく』。将棋は打つのではなく『差す』,弁当は食べるのではなく『使う』。日本語のプロならきちんとしなさい」。
 

 

お草さんの物語を読んだら,和食器を愛でたくなった。久しぶりに和風創作カップで珈琲をいただく。これは 20 年くらい前に,京都河原町の和食器ショップで見つけて 2 脚買求めたもののひとつ。素焼きのごつごつした手触りに暖かみがあるんである。
 

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