谷崎潤一郎の『卍』を再読。もの思ふ秋なんてカッコつけたところへ,またもやエロ戻り。
『卍』は昭和三年に雑誌『改造』に連載された。当時ではこのような同性愛をテーマにした作品はかなりヘンタイ的嗜好で読まれた,と想像する。「卍」の字訓は縦横に入り乱れるさまである。谷崎の本作品のおかげで「卍」という漢字には — 仏教的漢語に使われることが多かったにもかかわらず — 肉体が乱れ絡むさまの性愛的イメージが定着してしまったのではなかろうか。
しかしながら,性的嗜好何でもありのこの現代,この作品はもはやテーマのショッキング性を喪失してしまっている。イケメン男性の同性愛ネタのマンガ・アニメはひとつのジャンルをなしており,それを好む女性を「腐女子」と称する。こういう名称がひろく行きわたることは,それこそ「腐女子」がヘンタイでもなんでもなく,藝術作品愛好のひとつの類型として「健康的に」定着している証左である。「腐女子」といわれる女性も普通の市民生活を送り,普通に男性と恋をしている。「腐」っているのはアタマの中だけだ,というわけである。私はこれはとてもよいことだと思っている。それにしても,女性の同性愛物語を愛好する男の謂として「腐男子」なるコトバがないのはどうしてか。すでに久しくその愛好がありきたりだからだろう。
それでも,谷崎の『卍』はいま読んでも背徳的想像力を充分に刺激してくれる。何より本作品の魅力になっているのは,大阪弁によって一大長編を滔々と語り尽くしているところである。小説などで出て来る関西弁は大阪出身の私からみると不自然なものが多いのだけれど,谷崎は言葉そのものへの凝視が徹底していて,大正期の大阪船場あたりのハイソな家庭のヌラヌラ,ニョロニョロした頽廃的大阪弁を,擬音語でも使うように,ごく自然に写している。しかし,このヌラヌラ,ニョロニョロが,大阪の言語的日常性を超越してしまい,同性愛の陰湿と滑稽と真面目とがブレンドされた哀しさを表現している。唸らさせられるんである。
夫・柿内孝太郎と妻・柿内園子は徳光光子を巡る三角関係に陥り,光子を自宅に住まわせて夫婦で取り合いをする。「僕ら死んだら,此の觀音樣『光子觀音』云ふ名アつけて,みんなして拜んでくれたら浮かばれるやろ」(谷崎潤一郎全集,巻十七,p. 169)などという孝太郎の台詞とともに,三人は薬を飲んで心中を図る。園子は光子の自称婚約者・綿貫榮次郞から光子を共有する契約書に血判を押させられる。結局,綿貫は同性愛三角関係の秘密を世間に暴露し,新聞がその醜聞を書き立てる。これらはみな,その荒唐無稽さでエロティシズムというよりは笑いをこそ催す。異常性がある一線を超えると日常的風景のなかでは,滑稽感を顕に浮き彫りにする。
その一方で,生き残った園子は,光子に騙されたと思いながらも「今でも光子さんのこと考へたら『憎い』『口惜しい』思ふより戀しいて\/ [ くの字点:私註 ],......... あゝ,どうぞ,どうぞ,こない泣いたりしまして堪忍してください」(同書,p. 169)と拭いきれない未練を洩らす。このハイカラな「パツシヨン」は笑うべきものではない。
こういう荒唐無稽の笑いと狂った情熱との混淆こそが中期谷崎エロティック・ワールドなんだと私は思う。ラブシーンの描写そのものは,いまのエロ小説では考えられないくらいに抑制が効いている。
さう云ふと光子さんもやつぱり默つてわたしの顏じーツと視つめたまゝ,ふるてなさつたやうでしたが,ついさつきまでの氣高い楊柳觀音のポーズ崩れて,羞かしさうに兩方の肩おさへて,一方の足の先を一方の上に重ねて,片膝を「く」の字なりにすぼめながら立つてなさるのが,哀れにも美しう思へました。わたしはちよつといたいたしい氣イしましてんけど,シーツの破れ目から堆く盛り上つた肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと,いつそ殘酷に引きちぎつてやりたうなつて,夢中で飛びついて荒々しうシーツ剝がしました。[ ... ] — 冷やゝかな,意地の惡いほゝゑみを口もとに浮かべて,體に卷きついてゐるものをだんだんに解いて行きましたが,次第に神聖な處女の彫像が現れて來ますと,勝利の感じがいつのまにやら驚嘆の聲に變つて行きました。「あゝ,憎たらしい,こんな綺麗な體してゝ! うちあんたを殺してやりたい」わたしはさう云うて光子さんのふるてる手頸しつかり握りしめたまゝ,一方の手エで顏引き寄せて,唇持つて行きました。
「羞かしさうに兩方の肩おさへて,一方の足の先を一方の上に重ねて,片膝を『く』の字なりにすぼめながら立つ」,「シーツの破れ目から堆く盛り上つた肩の肉が白い肌をのぞかせてる」などの描写は,おそらく往時では読者のエロティックな想像力を掻き乱したに違いない。現代のわれわれはおそらくもっと露骨な想像を働かせるだろうけど。
谷崎の小説を読んですぐ,映画『卍』も観た。2005 年,アートポート制作,井口昇監督作品。主演は秋桜子(柿内園子),不二子(徳光光子),野村宏信(柿内孝太郎),荒川良々(綿貫榮次郞)ほか。
いうまでもなくピンク映画である。谷崎作品の映像解釈としては当然,ピンク映画なので露骨な濡れ場が出て来る。東宝映画などで見られるお高く止まったエロティシズムではなく,現代人の欲望を正直に,気取りなく映像化することのできる「低俗」ピンク映画の視線で,谷崎ワールドを再現している。登場人物の造形の子供っぽさに原作本来の荒唐無稽感がよく出ていて,笑いを誘う。そう,谷崎のエロは,「日本美」なんぞよりも,「諧謔・笑い」を惹き起こさなくてはならぬ。俳優の大阪弁は不自然な感じが強い。だけれども,映画・演劇における台詞の迫真性はリアリズムではないのであって,私はこの映画の「作ったっぽい」台詞は少しクレージーなテーマに合っていてよいと思うほうである。
だいたいにおいて原作のストーリーに忠実たろうとした映画だろうけど,上記で引用したシーンは,原作と違って,園子ではなく光子が積極的に相手を貪るような解釈になっていて,面白かった。映画では光子は確信犯的「悪女」のタイプに作られていた。映画ではやはり現代の日本人が観ることを想定してコトバなどが微妙に現代風になっているのもおかしかった。原作では,光子は園子の夫を「姉ちやんのハズ」(ハズバンドの略)と呼ぶのだが,映画では「パパさん」になっていた。
「映画ファン」,「谷崎ファン」はこの映画を酷評するだろう。大阪弁の台詞がわざとらしくて無茶苦茶だの,谷崎のエロスを卑俗化/通俗化し過ぎているだの。「藝術的エロス」を語るお高く止まった者たちには,谷崎の「荒唐無稽」「子供っぽさ」にある「笑い」の要素は,おそらく理解できない。谷崎ファンの所謂「日本美」なんてクソくらえである。そうそう,市川崑監督作品『細雪』— おそらく彼らの大好きな映画 — のような,これ見よがしの「日本の伝統美」なんて吐き気がする。人間の裸体の美を無条件に肯定することが谷崎の魅力だと私は思っている。谷崎の真骨頂は「吐き捨てたくなるからこそのエロ」なのだ。なんてバカバカしくて,なんて哀しいのか。深みがなさそうなピンク映画,エロ小説のどこが悪い。私はこの映画を支持します。
今回再読したのは,中央公論が 1959 年に刊行した谷崎潤一郎全集第十七巻(全三十巻)である。私は谷崎源氏もこのシリーズで全巻持っている。棟方志功デザインの新書判クロス装丁は味がある。本文も谷崎のオリジナルに合わせた旧字・旧仮名遣いである。活字の手触りがたまらなくよい。
以下のアマゾンリンクには,手近に入手できる新潮文庫版を挙げておく。旧字・旧仮名遣いが例によって新字体・現代仮名遣いに改められている。作品のヌルヌル,ニョロニョロ感は息づいている。新潮文庫版における表記の変更など,まったく気にしなくてよい。