新ウィーン楽派 since Dec.30 2002 |
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新ウィーン楽派の音楽はバッハと並んで、時代のなかで生きていることの苦しみやら絶望やら快楽やらのリアリティの表現となって私の生活を追いたててくれる。 1995年に東京でピエール・ブレーズ・フェスティバルと題して大規模な20世紀音楽祭があった。矢も楯もたまらず6月1日のチケットを手に入れた。それはシェーンベルクの室内交響曲第1番、室内オーケストラのための3つの小品、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲、ウェーベルンのオーケストラのための5つの小品、ベルクの室内協奏曲という演目で、ブレーズの指揮、アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏のほか、ダニエル・バレンボイム、ギドン・クレーメルをソリストに迎えるという、これ以上望むべくもない豪華なコンサートであった。 当時私は、その筋では知らぬひとのないある特許情報検索システムの開発に携わり7月の本番稼働を控え、何日も家に帰れない苦しい日々が続き、コンサート当日も2晩連続の徹夜明けで、仕事を一時的に抜け出してサントリーホールに足を運んだ。演奏する室内オケに見惚れるうちにシェーンベルクの難解な室内交響曲の途中で寝てしまった。ふっと気づいたらシンフォニーも佳境、いびきをかかなかったか気がかりであった。そのあとは夢のような時間が過ぎ去った。 そんなこんなで前評判に違わず素晴らしい演奏会で、私のこれまでのコンサート通いで一番思い出深いものとなった。
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シェーンベルク
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弦楽四重奏曲全集 ジュリアードの演奏は12音無調でこそ表出できる現代的抒情について初めて気付かせてくれた。特に第3番が出色だと思う。この盤はLPでしか聴けない。
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弦楽四重奏曲全集 抒情性、流麗さという点ではジュリアードに一歩譲るがアルディッティの演奏もフォルムの堅牢さ、モダンさでなくてはならない演奏。
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浄夜(弦楽オーケストラ版) いくつか指を折りたい名演があるが、P.ブレーズのこの盤はクラシックを聴き始めたころからのお気に入りで、当時近・現代の音楽に踏み込むよい入門となった。
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浄夜(弦楽六重奏版) 弦楽六重奏版は巌本真里弦楽四重奏団の盤が集中力の高さでラサール、ジュリアードを差し置いて私にとってのベストである。カップリングの弦楽四重奏曲第2番も長野羊奈子のソプラノが重厚で最高の名演である。シェーンベルクの演奏でこの四重奏団が語られることは少ないかもしれないが、現代日本の弦楽四重奏曲を多く録音した業績と並んで忘れることができない足跡である。
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エレジー風の子守唄 この曲は F.ブゾーニのピアノ曲をシェーンベルクが室内楽のために編曲したものだ。ハーモニウム、木管の響きが心に沁みる。
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月に憑かれたピエロ こういう頽廃はもはや現代人には表現できないものとなってしまった。現代人の価値観・趣味を決定付けているアメリカ人のグローバリズム、ポップ感覚からは最も遠い、不健康なインテリジェンスである。しかしこういうカリガリ風をいまだに酷愛するひともいる。演奏の正確さ、スマートさで、ミントン盤をメインに聴いている。
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月に憑かれたピエロ この曲特有の世紀末的頽廃という意味ではピラルツィク盤がいまだに最高位に留まっていると思う。最近クリスティーネ・シェーファーの興味深い録音を耳にしたが、ミントン盤、ピラルツィク盤には及ばない。
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室内交響曲 作品9 ソロの合奏でシンフォニーを形成するには弦と金管のバランスに不自然なところがないわけではないが、シェーンベルクの陽の部分の傑作であることは間違いない。
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ヴァイオリン協奏曲 作品36、ピアノ協奏曲 作品42 長らくツァイトリンのヴァイオリン、ブレンデルのピアノによる演奏しかなかった(と思う)ところに登場した盤。ヴァイオリン協奏曲はその歌いだしからヒロイックなロマンを感じてしまう。オケが秀逸。
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ヴァイオリン協奏曲 作品36、ピアノ協奏曲 作品42 ブレンデルのこの盤はバッハ・コレクションと並んでこのピアニストの最良のものと私は勝手に思っている。
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木管五重奏曲 作品26 木管のみで構成される、無調かつ大規模なアンサンブルは難解ではあるが、音の色彩の知的な異次元的空間はいまだに斬新な響きをもつ。これが初演された時の、新しい音楽を求める愛好家たちの、相互に理解し合える真に室内楽的な意識の高さが偲ばれる。 この WERGO レーベルの独輸入盤は、1967年の素晴らしい録音である。12音列の分析など詳細な解説が述べられているが、いかんせんドイツ語のみで書かれており、残念ながら読みとくことができない。
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ウェーベルン ウェーベルンの音楽は、音によるコンポジション以外の何の比喩も象徴も拒絶する絶対性・抽象性について語られることが多いと思う(本当か)。しかし私にとっては映画「エゴン・シーレ」の映像と結びついて離れない。マーラーの第5交響曲のアダージェットがヴィスコンティの「ヴェニスに死す」に対するのと同様で、よくない傾向であるが、仕方がない。ひとの感性は時代の偶然から逃れられない。 鷲巣繁男は「抽象的殉教者ウェーベルンの詩的結晶の不幸と聖化」(《エウメニデス》)と書いている。しかしこれは超越的世界への詩人自身の趣向を表現したものといったほうがより当たっていて、私にはむしろ現実世界への強い意思の具現、決して形而上的とはいえない叫びが聞こえる — 死と相関する不安なエロティシズム、時代・世界が非人間的暗黒に堕ちていく予感、「エゴン」の一シーンにある、監獄で芸術家がするおしっこの尿溜にはじける音のような抑圧の惨めさ。こういったものが、20世紀という時代のコンテクストにあって、ずっしりとくる石、顕微鏡で観察すると微小な生命の営みが理解できる植物のような音のテクスチャから聞こえてくる。
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全集 ピエール・ブレーズはウェーベルン全集のレコードを2回出している。最近のグラモフォン盤もよいがこの古いCBS盤のほうが歌曲、室内楽において未知の領域への意気込みが感じられて私の好みである。解説も親切。
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弦楽四重奏のための5つの楽章 作品5 アルバン・ベルク四重奏団の盤はおそらくウェーベルンの弦楽四重奏の演奏では金字塔であると思う。
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弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲全集 最近のウェーベルンの弦楽四重奏・三重奏の演奏のなかではアルディッティSQ盤がよく聴く一枚である。
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弦楽三重奏曲 作品20 弦楽三重奏曲の演奏は全集所収のジュリアード盤が表現主義的頽廃を感じさせて最良のものと思う。一方最近の録音ではウィーン弦楽三重奏団の盤が流麗で、カップリングされているシェーンベルクの弦楽三重奏曲とともに最も好む盤のひとつである。
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ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7 タッシのメンバー、アイダ・カヴァフィアンのヴァイオリン、フレッド・シェリーのチェロ、ピーター・ゼルキンのピアノによるこの盤は、ミクロな精神世界の断末魔というか、ドラマティックなディナーミクが最高だ。
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ピアノのための変奏曲 作品27 ポリーニの演奏芸術の幅の広さ、奥の深さを証明する一枚。
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ベルク
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弦楽四重奏曲 作品3 アルバン・ベルクの室内楽曲は感情が濃密すぎてもてあましてしまうところがある。緩急で主題の表情が多様に変化するのが素晴らしい。
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ヴァイオリン協奏曲「ある天使の想い出に」 少女の早逝を契機とした作曲に至るエピソード、完全5度からなる上昇志向のテーマが、天上的な物語性をこの曲に付与する。ちょっと異常な味わいのあるコンチェルト。
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ピアノ、ヴァイオリンと13管楽器のための室内協奏曲 この曲、このレコードは学生時代の私にとって、現代のエキセントリックなロマンティシズムの至高の表現であった。サントリーホール、ブレーズ・フェスティバルで聴いたライブが私に圧倒的な印象を残してからは、その記憶のよすがとなった。
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