私の PC 遍歴 since Jun. 2 2002 |
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私が初めて PC を買ったのは、92年、NEC の 98(PC98) が圧倒的シェアを誇っていたころだった。 コンピュータメーカのSEという仕事ではあるが、当時専ら大型汎用機のシステム開発が業務であり、PCについては素人同然、顧客の知識にも太刀打ちできない有様で、これからはこんなんではいけない、勉強しなくてはとの一心で購入を決意したのだった。 狭い社宅の空間ではどうもデスクトップは無理だろうと思い、ノートパソコンを考えた。ダイナブックが流行っていたが、NEC の 98 ノートにするかそのころ出たての IBM PS/55 Note かでずいぶんと悩んだ。私の会社の PC は、いまでこそ量販店で各社の製品とともに並べられるようになっているが、その当時は個人ユースを想定していない上、私の月給で買える代物ではなかった。—— ゴクミのパソコン 59 万 3 千円?冗談じゃねー、って感じであった(ゴクミといって通じるかどうかは置く)。AX (というアーキテクチャがあったのだ) というのも 98 にコテンパにやられた敗残者のイメージが強く嫌であった。98 か 55 か。結局 IBM にした、—— 仕事の大型汎用機の世界では宿敵であったのだけれど。DOS/V の「We Are Open!」というキャッチフレーズが新風といった感じで、新しい潮流を期待させたし、漆黒のボディにあのブルーのロゴが何とも妖しかった。 私の判断はあまり技術的ではなかったようだ。 このころ上の子供が生まれたばかりで何でそんな高い買い物をと妻の顰蹙を買ったものである。
いまの PC の標準スペックと相場からすると何とも高い買い物という気がするが、当時としては魅力的な価格であった。もともと汎用機 SE だからか、プログラム開発をしないマシン、コンパイラのない計算機というものを想像できなかったので Microsoft C は無理をしてでも購入した。 これで当初の目的通り、C をずいぶんと「勉強」した。その他会社の資料作成が専らの利用用途であった。パソコン通信を始めるようになり、ニフティサーブの FIBMPRO によくアクセスした。DOS/V マガジンは創刊号から購読した。PS/55 Note のベターユースなど参考になったがその後どんどんと専門度を高めていったような気がする。 事始めのマシンは、性能的には、Windows (3.0 の時代) が耐え難いくらい遅かった。特に Word で印刷しようものなら、タバコが吸えるという程度を超え、ディスクのアクセスランプが点きっぱなし、壊れて固まってしまったのではないかと思うほどであった。また Windows アプリの印刷結果が醜いことこの上なかった。Macintosh はこの点数段上を行っていたと思う。
私は仕事柄、大型汎用機の無味乾燥なマンマシンインタフェースや、エンジニアリング・ワークステーションの高解像度グラフィックス、高品質の文字フォントに慣れていたので、パソコンの GUI は、その使いやすさ・技術的到達度に目を見張る前に、チープさ、オモチャ的媚態・オタク的些末主義が先に鼻につく方であった。中・小型コンピュータの OS は UNIX の方が好みだった。会社で使っていた日立製 UNIX ワークステーション 2050・3050 は憧れのマシンであった。93 年になって、PC 上で UNIX を動かせるということを知り、何とか私のマシンでもと考えるようになった。しかし PS/55 Note では現実的ではないと分かり、Windows 3.1 が騒がれ始めたこともあって、ここらで買い替えるかということになった。 PC-UNIX は、その価格の高さにも拘らず BSD/386 に決めた。その当時すでに Linux や 386BSD も選択肢としてあった訳だが、丁度 UNIX MAGAZINE で特集記事が連載されていたことや、これぞバークレイ UNIX の正統というイメージが BSD/386 を選択するポイントとなった。事実たいへんスジのよい OS だった。 ではハードはどうするか。いまや IBM PC/AT 互換機であることが大前提であった。 DOS/V マガジンで、JCS の Vintage が BSD/386 での動作を保証すると宣伝していた。渋谷にあった JCS ショールームに行ってみた。その後 DOS/V マガジンのライタとして有名になった T 氏が、動作のために必要なマシン構成について親切に語ってくれた。これで即 JCS マシンに決めてしまった。94 年春のことだ。 まだメーカ製 DOS/V マシンは高価であった。
このころ下の子供が生まれたばかりで何でそんな高い買い物をと妻の顰蹙を買ったものである。 PS/55 を中古でとある会社員に売って BSD/386 の代金にあて、マシン自体は 24 回のローン。狭い社宅にデスクトップどころかフルタワー PC がやって来た。押入れをせっせと整理し PC や書籍をぶち込んだ。乳児が眠る夜中、AT のあのどでかいビープ音には辟易したものであった。 東芝の CD-ROM ドライブは当時憧れの的で、奮発したアイテムのひとつであった。SCSI カードは BSD ご指定の一品で導入した、—— ユーザ責任でコンピュータに装填しなさいと裸のアセンブリ部品が売られているのが、メーカの人間としては、初めは信じられなかったのだけれど。これが最初動かず冷や汗ものだった。ISA バスを替えたり大童で何とかうまくいった。Video カードは ATI/Mach32 が欲しかったのだけれど、高価で手が出なかったので、T 氏のお勧めに従って Orchid/S3 にした。シンプルな 101 キーボード、3 ボタンマウスを選んだのは、UNIX のためだ。ディスプレイは最もこだわった部分で、メジャーな製品ではなく敢えて DEC にしたのは、基本スペック以上にワークステーションライクなデザインに魅せられたためだ。 いまとなっては古色蒼然たる VL バスマシンだったが、55 ノートに比べ目の醒める速度改善にただすごいと思った。また自宅のパソコンで X-Window (まだ R5 であったが) が走るのがひたすらすごいと思った。 私はちょっと気取ってこのマシンに hostname として "diotima" と名付けた。これは、ドイツの大詩人ヘルダーリンの詩に現れる神秘的女性の名なのだ。私の PC は願わくば Diotima のような精神的創造へ昇華してゆく存在であることを...。Xanim 等のフリーソフトをコンパイルしたり、sendmail、bind 等インターネットワーキング・アプリケーションの勉強をした。Windows も 3.1 になり、TrueType フォントがサポートされやっと使い物になったという感がした。
Vintage は足掛け 4 年愛用した。この間 Quantum の SCSI-HDD や、SHARP のスキャナ、カラープリンタ、サウンドカード、スピーカと追加し、流行に乗って 10 倍速の ATAPI CD-ROM も買ってしまった。マシンはこれまで専ら私の仕事、通信のためのものだったが、いまや音が出るし子供の遊び道具ともなった。高速かつ安定して動作した。JCS はニフティサーブで玄人かつ良心的なユーザサポートを行っており、これも JCS ブランドに現在もこだわりたい理由だ。Windows 95 になってもメモリを追加して、Word や Excel はすいすい動いた。 しかしながら、Photoshop で巨大な画像データを編集したりするとやはり 486 マシンは考え込んでしまうし、256 色の画面では何とも寂しい。Quake (という残酷なゲーム) をプレイすると、会社の PC (Pentium 120MHz + Mach64) に比べ描画速度の遅さに愕然とした。だからといって、最新の JCS マシンに買い替えるにはあまりにも手元不如意だ、—— 子供も二人になり、もう私一人の判断で散財できなくなっているのだ。 96 年秋、何と私は肺**などという古風な病を患って、3 ヶ月間病床に釘付けとなってしまった。柄にもなく来し方行く末を考えた。バッハの平均率を繰返し聴き、ダンテの「神曲」やブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」等の長編文学の他、ウィリアム・ブレイクやアンナ・アフマートヴァの暗い詩を読んだ。 その一方で —— ヘルダーリンを読みながら ——、何とか安価にわが diotima をアップグレードできないか案じた。こうして第 3 のマシンはマザーボード、Video カード及び CPU の入れ替えで実現することとなった。 ケースのブランド・ロゴは Vintage のまま、中身は全くの別物となってしまった。JCS のサポートが受けられなくなったのはちょっと残念ではある。とは言え 101 キーボード、DEC のディスプレイ、ロジテックの 3 ボタンマウスは変わりはなく、私にとっては長年愛用した Vintage がチューンアップされただけといった感じだ。
妻はまた子供を授かるのではないかと少々怯えた。 これまでに比べるとずいぶん控えめな買い物だが、パフォーマンスは格段に向上した。CPU も MMX が出荷され次世代 Klamath (Pentium-II) が見えてきたところで、このクラスの価格が下落途上であった。マザーボードはいくつか値段的にリーズナブルなものを比較検討した。米国メーカで安心というのと (Made in Taiwan なのだが)、拡張スロット、メモリスロットがたくさん付いていて、当時話題の 430TX チップセット搭載の Baby-AT ということで Tyan 製の最新モデルにした。「たいあん」というのも縁起がよいではないか。 ところが組立て直後はトラブルが多かった。 マウスが使えない。PS2 コネクタを買い足してこれは OK。電源 ON で IPL せず画面は真っ暗。何回かリセットボタンを押して立ち上がったと思ったら、次はアドレス例外や一般保護例外でアプリが頻繁にダウンし、とても落ち着いて仕事ができないのだ。 ニフティサーブの AT 互換機関連の会議室での書き込みやトラブルシュート本で研究した結果、どうも電圧低下、熱、メモリのアクセスタイミングの問題である可能性が高いらしい。特にアプリの異常は、段階的に買い足していった メモリ (SIMM) の相性で発生しているらしいのである。 「相性」という体のよい言葉がこの業界でまかり通っているが、私には到底技術者の口から出る用語とは考えられない。要は安売り商売では原因追求は面倒だし、ショップでは技術的にカバーできる設計情報には限界がある、ということがこの言葉の背景にある。「じゃ、そういうことで」—— "Do it yourself" はマヌケな失敗かと思った。とは言え、相性だの、"on your own risk" だの怖がらせても、いくら何でも工業製品、商売なのだから、「懸賞・クジ引き大当たり」、なんかよりも動かない確率が高いなどと誰が思うだろうか。 そして私は懸賞など当たったためしがない... SIMM のバンク単位で製品ベンダを合わせたり、タコ足配線を止めたり、Quantum の内臓 HDD に冷却ファンを付けたり、と確信のないまま思い付く対策を打って、何とか安定して動くようになった。 これで 97 年のゴールデンウィークは退屈しなかった。またこの春ちょっとした収入があり、臨時の小遣いを貰って、Victor 製の CD-R を購入した。やっとバックアップらしいことができるようになった上、音楽 CD から好みの楽曲を集めてオリジナル CD を作成したりと、PC の楽しみがひとつ増えた訳だ。
マシンは新しくなり高速化したが、PCI バスへの変更で BSD/OS が動作しなくなってしまった。自宅での UNIX 環境が失われた訳だ。BSD/OS 新バージョンへのアップグレードの 2 万はちょっときつい。こうして私は FreeBSD の導入を検討し始めた。Ver.2.2.2 でようやく Tekram の SCSI がサポートされたこともあり、これを契機に自宅の PC の UNIX 環境として FreeBSD を導入した。ここで特筆すべきは、やっと UNIX 上でプリンタが、しかも PostScript が打てるプリンタがセットアップできたことだ。昔から GNU の Ghostscript で PC 用の安価なプリンタを PS プリンタにしたてあげる話は聞いていたが、私のプリンタ BJC-455J でしかもカラーで印字できるようになるとは思わなかった。FreeBSD の入門書、その 3 年前の (!) UNIX MAGAZINE を参考に、bjc600 用のデバイスドライバを利用してフィルタスクリプトを書いた。tiger.ps (有名な虎の絵) が色鮮やかにプリントアウトされた時は感動した。 PS プリント環境が揃ったこともあり、パソコンでの私の主な研究対象は TeX やマルチリンガル・エディタ Mule となり、そのうち、文学の研究論文を TeX で書いてみたいなと思いながら、参考書の記述をマシンで試したり、電子メールや Tgif の利用方法を勉強したりした。そのせいかあまり Windows を使わなくなってしまった。直感的な使い勝手やビジネスアプリの便利さは Windows に譲るとして、やはり自由な思想を背景に良心的ソフトウェア・プロフェショナルによって育まれた計算機文化である UNIX が私のプライベートな PC 利用のメインとなった。(Windows もその後着実に進化し、やはり優れた OS であることは間違いないのだけれど)
私は PC を手に入れ、拡張し、入れ替え、設定し直し、ソフトを追加し、プログラムし、色々やってきたが、—— もうその後の拡張の様をここに記する気にもならない —— コンピュータとは何だろうか? 何のために私は PC を使うのか。 コンピュータ業界は確かに日進月歩で様変わりしており、利用技術は拡大している。グラフィック能力が高まり、いわゆるマルチメディアが安価に実現できるようになった。私が PS/55 Note を買ったころ、The Internet なる米国の戦略的ネットワークに接続できる計算機は夢のような存在であったが、いまでは PC ユーザでインターネットを利用していない方が珍しくなった。製品アプリケーション全盛で、ユーザは買ってきた出来合いのハードとソフトで自分のしたいこと全てがまかなえる。だからこそああも売れるし、これほど安価になり、さらにこの路線は進化が約束され、マイクロソフトが相も変わらず君臨し続ける。楽しく、便利になり続けるのだ、最大公約数的人間にとっては。 しかし私は、計算機の真の可能性は、ユーザ固有の問題に開かれていることにあると考える。計算機はチューリングが証明したように力学的でない一切の応用が可能である、とするならソフトメーカがあてがった問題論だけで満足するのはつまらないではないか。自分だけの問題論 —— 課題と解決たるアプリケーション —— があるはずだ。 私はそういう意味で開発するための計算機ということにこだわる。文学は書かれたもの・成果物ではなく書くこと・エクリチュールそのもの、とある作家が言ったように、計算機は開発されたプログラムを実行させるためではなく開発するためにこそある、とでも言おうか。 私は、最大公約人から離れたところで計算機を利用する人々にこそ強い共感を覚える。詩の韻律特性の分析のためのアルゴリズム、戦略特許の新規性証明のための検索技術、こういった高度に特化した目的で計算機に血道をあげる人たちがいるのだ。バークレイ UNIX のコミュニティは、こうした人たちによって構成され、彼ら自身の自由な思考に役立てるために進化したのであって、商用路線・利便性・ファッション性とは一線を画す。彼らは自由な人々がそうであるように少数派であるが、確実に生き続ける。 私も計算機に携わるものとして、彼らの憧れや熱情を共有したいと思うし、私のマシン —— diotima —— はそのための拠所としたいのだ。
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(Aug. 8 1997 初稿, Jun. 2 2001 改)
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