misima について
since May 8 2005
人間の精神には,今ここに流通する言葉から抜け出したいという欲求がある.
— 水村美苗

昨年(2004/11)現代表記テキストを旧仮名・旧字に変換するプログラム misima を公開した.谷崎の旧仮名の全集を読んでいて,ふと思い立って自分のために Perl で書いたのだけれど,Web サーバのアクセスログをみると使ってくれる方が意外といる.プーシキンの電子コンコーダンススラヴ語関係の TeX 記事などが私の注力するところなのに,そちらはさっぱりで,軽い気持ちで拵えた方がアクセスが多いとは皮肉なものである.misima の使い勝手やら精度やら,どう評価されているのか気になるところである.でもそれ以上に,こんなプログラムを公開すると,古い考えに懲り固まった石頭だとか右翼だとか勘違いされないかという虞があるので,少し考え方をしるしておく.

国語表記をテーマとするサイトの掲示板には,国語問題とは全く関係のないイデオロギー的発言が目立ち,無記名をよいことに中国や朝鮮に対する誹謗・中傷で溢れかえっており,読むに耐えないこともしばしばである.そんな話題を望んでいるとも思えない掲示板主催者が不憫である.旧仮名だとか国語問題を扱うとこうしたゴミが溜るのはなぜだろう.国語問題は国粋主義と容易に結び付くようである.逆に古い国語表記に関わる活動をすると国粋主義者との誤解を招くのではないか.中国や朝鮮のほうが漢字文化の先達であり,最近の竹島や尖閣諸島の外交問題,反日デモの話題,北朝鮮の核兵器開発問題,拉致問題は確かに面白くないけれども,私は文化的同胞意識のほうが高い.

また旧仮名,旧字こそ正統であり,新仮名,新字は歴史の誤りであり間違った文化であると私が考えていると誤解される方もいるかもしれない.確かに私は旧仮名・旧字に愛着を覚え,日本の古典的作家の作品が現代仮名遣い・新字に改められて印刷されるのを疑問視するものである.しかし私は旧仮名・旧字「主義者」でも,新仮名・新字略字「論者」でもない.現代仮名遣いが音に忠実であるがゆえに正であるとも思わない.「私わ」なんてまじめに書く人はいない.書きことばと話しことばは截然と区別されるべきで,同様に音声と表記は異なるものである.ましてや,中国の偉大な漢字文化の受容こそが日本に多様な言語表現,一種独特の混淆文化を可能にしたと私は考えているので,カナモジ派,ローマ字派なんてのは論外である.私は広く正則とされる決めごとに従いたい,ただそれだけである.

福田恆存の「私の國語敎室」は現代仮名遣い策定を批判した国語問題の名著だと思うが,私は旧仮名・旧字が「正統」だとか「合理的」だなどとは考えない.言語に正統,論理的,合理的との定性的評価,不変性への指向を持ち込むことは,言語は複雑な社会的・歴史的制約のなかで否応なく変化していくのだ,ということを—「正統」「合理的」な姿からの逸脱を悪とする意味において—否定している.そもそも「合理的な」表記が優れているなんて誰が決めたのか.フランス語は論理的で日本語は論理的でない,というくらい根拠のないことだと思う.日本語でも論理的な文章は書くことができる.

最近の人は漱石や鷗外を原著の表記で読めなくなってしまったと嘆く旧仮名・旧字主義者の文章を読んだことがあるが,「原著の表記で読めない」のは単にその人が本をまじめに読む習慣がないだけ,未知のことばに対して無関心かもしくは怠惰なだけであって,現代人が旧仮名・旧字を使わなくなったためではない.

スタイルを抜きにすれば,社会的正則に従うべきであると思う.これは長いものに巻かれるのとは違う.福田恆存が引用したとおり,橋本進吉博士は「假名遣は假名で國語を書く時の正しい書き方としての社會的のきまりである.卽ち,それは,文字言語に於ける文字の上のきまりであつて,文字と關係の無い音聲言語とは無關係のものである」との達見を示している.橋本博士は国語学の立場から現代仮名遣いに批判的だった.しかし正否,善悪,好悪は置いて,いまや現代仮名遣いがその「きまり」となってしまっている.成立の事情がどうあれ,政治的/政策的ニュアンスを全く喪失してしまっている.

国語国字への問題意識から旧仮名,旧字に習熟したいと努力する若い人には敬意を表したいと思う.旧仮名・旧字関連サイトをときおり訪れて結構勉強させてもらっている.しかしながら,いまや「社會的のきまり」ではなくなった旧仮名・旧字は漱石や鷗外の時代におけるかつての抽象性を失い,異化作用を放ち,逸脱の「装い」—スタイルの偏向を帯びて読み手に迫る.日常的に使うなら,これを意識し,旧仮名・旧字である意義,気迫をもった文章を書いてほしいと思う.そうでなければ,関西人が(つまり私のいつわりない感想を言うのだが)地元で東京ことばを耳にするときに抱く違和感以上に気味が悪い.かつてロシア旧正書法で書く亡命ロシア人がいたが,これは命を賭けた反体制行動であった.三島由紀夫が潔癖なまでに旧仮名・旧字に拘ったのも文化的戦闘にほかならなかった.

新仮名遣いは戦争に負けアメリカの言いなりになった政府が伝統的国語を無視して決めたもので,そんな事実を知らず新仮名で書いているヤツは愚かである,というような極端な書き込みをネットで目にすると,おいおいと思ってしまう.反体制のニュアンスで語っているのなら凄いと思う.そうではなく,そんな成立事情・動機からことの本質を見極めた気になって現代仮名遣いをくだらないと考えているだけで,北朝鮮のような統制国に暮らす住民を嗤うテレビの報道番組にどこか似ている.それが彼らの「生活」なのだという切実を無視している.そんな現代仮名遣い批判者は,おそらく仕事の抜きさしならぬ局面でことばを選ばなければならない状況とは無縁でいられる人なのではないかと想像してしまうのだ.社会的言語責任から,象牙の塔のなかで比較的自由でいられる学者や学生がほとんどなのではないか.理解されないのは相手が無教養だと開き直っておれるのである.ことばで「生活」している人はそうはいかない.

日常生活で書くこと(文芸作品のことを言っているのではない)とはまず読み手の立場に立つことから出発する.私は Linux のメーリングリストにおいて,旧仮名・旧字でメッセージを書いた人に対して「人をバカにするな,こんなヤツが出入りするところならもう脱退する!」と烈火のごとく怒っている投稿を読んだことがある.これは2ちゃんねるでも Yahoo! 掲示板でもなく,きちんと姓名を公開してまじめな議論を行っているコミュニティでなされた発言である.件の旧仮名遣い・旧字のメッセージ自体は極めて礼儀正しい内容であった.あたかも身振りによって,あるいは「装い」によって,表記そのものが読むものに対する配慮の欠如を示したため,投稿者の琴線に触れてしまったのであろうと私には推察される.多少大人げないとは思いながら,書きものに対するセンス,真意を読み取ろうとする反応としては,この怒れる投稿者に同情したものである.北朝鮮に行って「あなた方はこうこうこういう理由で愚かな生活を強いられているのです」と正論を言って袋叩きにあう様を想像した.

これほどに表記は深く読み手に突き刺さるものであり,このような場では文化の継承などという大義名分はなんの正当化も果たさない.他者とのコミュニケーションが死命を制するビジネスの場で旧仮名・旧字の文書を提示する場面を仮に想像すると,私は背筋が寒くなる.日本の書きことばの文化の深さと現実性を改めて思い知らされる.

では misima はなんのためのプログラムか.これは misima 仕様説明ページに書いたとおり,あくまで旧仮名・旧字の引用を効率よく行うためであって,自分の良心を表現する文章を書くためのツールではない.誤解を虞れずに言うと,misima は旧仮名遣いも旧字も理解し書ける人が,現代仮名遣いに最適化された計算機で入力した引用文を,効率的に旧仮名・旧字にするために使うものである.学術論文を書くような方を利用者として想定している.そのような人は自分の書いたものを慎重に見直すはずだ.プログラムがぱかっと行った変換結果の正否を確認しない人は,逆にこれを使って恥をさらすだけである.コンピュータ・プログラムとはそのようなものである.もうひとつプログラムの目的として「少し気取つて書く」とあげたのは,旧仮名・旧字で書くというさらなる言語の非日常的領域に踏み込むのは,私には気取らずにはできそうにないからである.

misima の動機付けとしては,明治・大正・昭和の旧仮名・旧字文化へのオマージュがあり,古典や近代・現代の偉大な作家の言語を大事にしたいからであるとしか言いようがない.しかしこれは日常的に使う表記を彼らの言語に同化すべきという考えとは違う.キモノが日本文化を代表する素晴らしい衣裳だからといって,会社に着て行くバカがいるか(ホステスさんは別として.昔ホステスにとってキモノは着物ではなく会社員のスーツと同じく戦闘服なのだということを感じさせるコマーシャルがあった).そうは言ってもキモノは日本の重要なスタイルであり,好きであり,失われては困る.私の旧仮名遣い・旧字への愛着もこれと同じである.プログラムの名前は意味も無く三島由紀夫を連想させるために付けたのではない.私は三島由紀夫を芸術家として深く深く尊敬しその作品を愛読しているが,社会生活において捉えると,軍服を着て自衛隊に立てこもった姿は非常識人としか思えない.三島文学は日本文学史の精華であるが,三島由紀夫の実生活を真似る人と付き合いたいとは思わない.

森鷗外は明治四十一年,政府が招集した仮名遣い臨時調査委員会で,当時からあった発音に基づく仮名遣い制定問題について意見を述べており,私はその議事録を岩波鷗外選集第十三巻(昭和五十四年刊,全二十一巻)で読んで非常に興味深いものがあった.鷗外は,ことばが変化するという本性から表記は必然的に歴史的なものとならざるをえず,従って表記は書かれたものに準拠すべきであって音声とは分けて考えるべきであると述べ,政府が性急に仮名遣いを制定することが言語生活に混乱をもたらすと警鐘を鳴らした.戦後の仮名遣いの論争をみると,その先見の明に感嘆してしまう.でも私は必ずしもこの「混乱」を悪だとは考えない.確かに戦後の国語改革は混乱をもたらしたかもしれないが,旧仮名遣い・旧字の文化が失われたわけではない.現代仮名遣い,旧仮名遣いが併存することは表記の常識を疑う問題意識の端緒となる.書きことばのスタイル同士が火花を散らすのはよいことだと思う.様々なスタイルがぶつかり合って,救いようのない低級品が産出される一方で本物が研ぎ澄まされていくものと信じる.

May 8, 2005 初稿
Nov. 22, 2005 誤記訂正,追記

 

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