バッハ since Dec.30 2002 |
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「驚くことは何もない。正しい鍵盤を正しい時に叩くだけで、楽器自身が演奏してくれる。」こうバッハは語ったと伝えられている。神意はいたるところに在るということか。しかし何が「正しい鍵盤」でいつが「正しい時」なのか判断のつかない世界にあってみれば、この意味をどう受け止めるべきか。おそらくひとりひとりに委ねられているのだろう。 私にとってバッハの音楽とは、知、情、技、真、善、美、...といった人間的なるものの大切な概念を想起させてくれるリファレンスといってよい。 外見は穏やかで慎しいが、日々の過酷な継続を受容する静謐さ、破局を秘めた日常性というか、緊張を漲らせた静けさというものがある。ごく普通の当たり前の物事に時折り偉大な生命力、存在感、霊性を見出すことがある。バッハの音のたたずまいにはそんな現実感がある。
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平均律クラヴィーア曲集第1巻、第2巻 バッハはロマンティックではないが、ロマンティックなバッハはよい。リヒテルの演奏は、多くのロシアの優れた演奏家がそうであるように、主観的かもしれないが人間的である。特に第1巻のロ短調は、私の人生のさまざまな局面において慰めとなり励みとなった。 ひとは興じて、もし孤島に死ぬまで幽閉されるとして唯一持っていくことを許される本、レコードを選ぶとしたら何かとしばしば案じる。いまのところ私の選択は、まず迷うことなく、バッハの平均律であり、リヒテルのこの盤なのである。いかようにせよ芸術作品を統制し格付けすることは通俗的で愚かしい営みではあるけれども、個人的な究極の選択というものはある。
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ゴールドベルク変奏曲 ゴールドベルク変奏曲は酌めども尽きせぬ音楽的愉悦である。レオンハルトの盤が正統的でお気に入りである。この演奏は繰返し部分を少しさぼっているようで時間が短い。
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ゴールドベルク変奏曲 そのブクステフーデのカンタータの録音にひどく感激して以来、鈴木雅明は注目する古楽演奏家である。最近入手したゴールドベルクも端正で奥床しい。音量を絞って夜中に聴くと幸せな気分に浸ることができる一枚である。
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ゴールドベルク変奏曲 BWV988 偉大な人間の記録というべき記念碑的名演奏。ただし少し気分を選ぶところがある。
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ゴールドベルク変奏曲(弦楽三重奏版) 就職活動で上京した折、テレビ番組制作会社に勤める友人のアパートに泊めてもらった。彼もバッハをこよなく愛するひとりであったが、「最近よいレコードを手に入れた」といって聴かせてくれたのがこの弦楽三重奏版のゴールドベルクであった。窓を開け放って真夏の世田谷の畑を眺め、煙草をふかしながら聴き入った。会社訪問、面接で緊張感と不安が当時の私の生活を通低していた。この優しく軽やかなレコードを聴く度に、そのころの淡い期待や不安、優しい心をもつ友人の、ほとんど家財道具のなかった簡素な部屋を思い出す。 このトリオでモーツァルトのディヴェルティメントも聴いてみたいが、実現しないものか。
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イタリア協奏曲ほかピアノ曲集 ブレンデルはシューベルト、シューマンといったロマン派の演奏が有名だが、このコレクションを耳にすると、バッハをなぜもっと録音してくれないのかと思ってしまう。特にイタリア協奏曲の第2楽章、ブゾーニ編曲によるコラール前奏曲 「Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ 」は親密さ、内省の深さ、魂の静謐さ、芯の強さ、純真さで心を打つ。
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無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲 一本のヴァイオリン、チェロでフーガを奏する、もしくはポリフォニーを表現するというマニアックな発想そのものがこれら作品の本質を物語っている。作品は、全く演奏効果に欠けるだけいっそう、自分自身、あるいは知性を同じくする数名のための親密な営みの性格を強める。「いくたりもの棟梁の手でいろいろと寄せ集められた仕事には、多くはただひとりで苦労したものに見られるほどの出来ばえは無い」(「方法叙説」)とデカルトのいう完全性を志向するのだと思う。 それ故かどうかは別として、アンサンブルではオリジナル楽器によるものにお気に入りが多いのに対し、こと無伴奏は求道者精神に貫かれた弧高の至芸とでもいうべき大家の演奏をあげてしまう。 シェリングは戦時中、義勇兵として従軍しながら、野戦病院でヴァイオリンを演奏したという。バッハの無伴奏も弾いたのだろうか。こういう波乱に満ちた生に支えられてか、この演奏は凄い。
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無伴奏チェロ組曲全曲 昔見たATGの映画に、こんなシーンがあった。流浪する恋人たちがモナコだかニースだかの野外ホールでチェロの大家が演奏する様をタダ見している。男の方が避暑の金持ちのためにおそらくバッハを奏でる演奏家に憤りを覚える。妙に印象に残っているのだけれど、堕落した金持ちに高い精神性を有する音楽はふさわしくないということか。バッハの音楽の精神性というのはよく分らないけれども、確かにフルニエのチェロ組曲を聴いていると崇高な思いに駆られる。
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無伴奏チェロ組曲全曲 バッハの無伴奏には、僧侶が声明において腹の底から発声する厳粛さがある。ソ連共産党書記長チェルネンコが亡くなった時、NHK−FMが何の説明もなしに延々とバッハのチェロ組曲を流していた。追悼の意を表してであろうか。とはいえこれが、ソヴィエト体制によって投獄された経験をもつ亡命ロシア人ミシャ・マイスキーの演奏だったとは — と私は確信しているのであるが — 皮肉な話ではないか。
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音楽の捧げもの BWV1079 端正、高雅、芳醇、などなど様々な賛辞に値する、バッハの室内楽演奏の精華と思う。
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ブランデンブルグ協奏曲全曲 レオンハルトの演奏が都会的とすると、アーノンクールには少し鄙びた趣を感じる。一方音はより厚く重い。古楽器演奏の素晴らしさを初めて納得したレコードである。アーノンクールはブランデンブルグを80年代にも録音しているが、私は60年代の旧盤が好みである。特に6番の第2楽章の燻銀のような渋さに酔ってしまう。
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ヴァイオリン協奏曲集 BWV1041-BWV1043 第2番の第2楽章の宗教的な調べが心に沁みる。レコードの解説者が清冽なバッハと評しているが全く同感である。
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ヴァイオリン協奏曲集(復元版含む全6曲) チェンバロ協奏曲ニ短調 BWV1052 やト短調 BWV1056 などはヴァイオリンのための作品を原曲とするものであったという。実は私にとって、今に伝わるバッハのヴァイオリン協奏曲と比較して、これらの復元されたものが同等あるいはそれ以上に堂に入っている。
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チェンバロ協奏曲集 メリハリの効いた弦楽合奏は、レコード発売当時目を見張ったものであるが、今に至るまでこれを凌駕する演奏に出会っていない。
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フルート・ソナタ 何気なく買い求めたレコードで当たった演奏。
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ヴァイオリン・ソナタ 「音楽の捧げもの」と並んで、アンサンブルにおけるバロック・ヴァイオリンはやっぱりクイケンだなあと思う盤である。
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マタイ受難曲 学生時代、マタイを毎日聴かずにおれない友人がいた。熱心なキリスト教徒が礼拝を行うように、人生の何分の一かをマタイに捧げていた訳である。ことほどさように声楽と室内楽の最も感動的な作品であることは間違いない。彼はリヒターの有名な盤を儀式のようにターンテーブルに据え付けていたものである。私はというとこちらの新しい方が好みである。
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